活動の記録

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録VOL18

お元気でしたか

2022年もあっという間に1月が終わり、早くも2月になりました。オミクロンが猛威をふるっておりますが、北京五輪開催されていますが。選手には存分に実力を発揮して良い結果に結びつくことをお祈りいたします。ウインタースポーツといえば、この間テレビで映画「私をスキーに連れてって」を放送していたので久ぶりに観ました。1987年の映画でしたが、1983年当時仙台のアルバイト先のガソリンスタンドのMさん達に連れて行ってもらった山形蔵王スキー場の想い出や、アマチュア無線や車など当時あこがれていたトレンドにもあふれていて、あの頃夢中になっていたことがぎゅっと詰まっているおもちゃ箱を開けるような思いがして、ついハマってしまいました。かれこれ40年。早いもので私も還暦を迎える歳になりました。青春の想い出は甘くもありすっぱくもありいつになっても良いものですね。もうスキーはとっくに卒業しましたが、当時は遊びに夢中で寝るのを惜しんで飛び回ったりして今では考えられないようなエネルギーが溢れていました。20代のみなさん、どうぞ好きな事に思いっきりエネルギーをぶつけてください。そのエネルギーは若いうちにしか出てこない貴重なもの。老いたときにきっと微笑んで振り返ることができるはずです。

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録VOL18(営業の最前線 情報という無形の価値)

1993年ビールメーカーへ転職してから4年が経過し、大手電鉄が運営する屋上ビアガーデンやサウナチェーン、イベント外食、そのほか様々の外食チェーンを担当しながら大型ビアレストランのプロデュース補助や海遊館、OBPなどの再開発案件の新規の飲食施設の開拓にもかかわり、すっかり仕事にもなじんで、精力的に活動していました。担当する得意先の中に関西の大手電鉄系のレストランチェーンがあったのですが、ほとんど他社のビールの扱いで、いかに取り扱っていただけるかが課題でした。ライバルメーカーは上層部とのつながりも深くVIP待遇なのですが、我方は定期的に訪問するものの、窓口の課長とは通り一遍の世間話しをしておしまいでほぼ門前払いの状態でした。しかし、あるときの訪問で窓口の課長との何気ない会話の中でお酒好きで北新地に通っていることや、新業態について情報収集していることが判ったのです。そこで当時注目を集めていたJRの高架下に我方の業態開発でオープンしたばかりのテーマ型大型ビアレストランの視察を提案してみると、課長は一つ返事でOKしてくれました。ところが視察当日に待ち合わせ場所に来たのはなんと専務とライバルのビールメーカーの担当者と課長の3人ではありませんか。どうもライバルメーカーの担当と専務は懇意にしていて敵情視察を兼ねてついてきたようでした。「なんと図々しい」と直感的に憤りを覚えたのですが、あからさまにアウェイ感を突き付けられたことで、逆にこころの底で「絶対に後に引かない」という燃え上がるような闘志がみなぎってきました。一行を予約していた席に案内し、乾杯して食事をしながら談笑し頃合いをみて一通り店内の案内を終え店の外に出ると、一同が面を喰らってしまうほど入口は入店待ちの長打の列だったこともあり、繁盛ぶりをより印象付けることが出来たのでした。

専務とはそこで別れ、窓口の課長とほかの店で差しの接待に持ち込もうと画策したのですが、なんとライバルメーカーの担当もついてくると言ってきたのです。しかたなくその担当者と接待を折半することで折り合いをつけ、課長の知っている北新地のあるラウンジに行くと、女性が3人に一人ずつ付くのですが、当時は人手不足で出稼ぎの外国人がたくさん入国していた時代で、女性たちは日本語がまったく通じない中国人だったのです。まともな会話もないまま、ひたすらドリンクを注文され30分で出ることに。お会計がこれまたびっくりの20万円超えだったのです。もう一軒課長の行きつけというカラオケスナックにお付き合いして、これといって成果のないままこの日の接待が終了。未熟で世間知らずな自分を責めつつ上司に散財をどう説明しようかと思い悩みながら酔えない帰路につくのでした。道中の電車内で「どうせ話さなければならないことならば、正直に話ておいたほうが良い」と決めて、翌日正直に上司に報告したところ案の定大目玉をくらうことになります。

しばらくして得意先の課長から電話があり、話があるので来てほしいとのこと。アポイントの日に行くと、開口一番、まだ非公式の情報なので内密にしてほしいと前置きをしながら、電鉄の起点駅の構内改装工事があり整理区画で新規のレストランを計画しており、ビアレストランの業態提案をしてほしいと言ってきたのです。担当してこれまで何の進展もなかった得意先が振り向いてくれたことが、とてもうれしかった瞬間でした。その後、東京の外食コンサルタント会社の協力を得ながら業態提案を行い、その後無事に我方のビール取り扱いのビアレストランが完成したのです。後になってわかったことですが、視察に来られた専務は電鉄本社から出向されていた方で、社内の意思決定権があるうえに、窓口の課長に目を掛けておられたために話がストレートに通じあう仲だったたようで、あの視察を提案していなければ、この話は無かったのです。この当時、経営資源といえば人、物、金で情報(カタチのないもの)はタダという風潮が強かったのですが、現物、現場のリアルでタイムリーな情報こそ大きな価値があると実感したのでした。

このころ大阪は1994年に開港予定の関西国際空港建設が進んでいました。私は、関空の飲食施設のビールの取り扱い開拓を進めるプロジェクトのメンバーでもありました。このころは開港までおよそ一年に迫り、空港内飲食施設の概要と出店エントリー企業の情報取りが急務でした。そこである会合で知り合った内装会社のT氏との情報交換が始まります。我方は飲食施設の概要が知りたかった一方、先方は出店企業の情報を集めていましたのでお互いに求める利害が一致していました。何度も面談や会食を重ね情報をやりとりしているうちに気心が知れていき、ついに建物全体の平面図と想定業種区画のマル秘情報を手に入れます。この情報のお蔭でこれまで推測の域を脱しえなかった施設像が明らかになり、闇雲だった出店者へのアプローチもつかみどころのあるものへと変わり、プロジェクトの活動が加速していき、飲食ゾーン以外にも出発ロビーの売店や制限内ショップ、航空会社のVIPルームに至るまで細部にわたりビールの取り扱いが想定されるところをしらみつぶしに当たっていく活動が展開されていきました。

いよいよテナントを選定する抽選会が大阪のある場所で行われるということで、プロジェクトメンバー全員が会場となったビルの出入り口周辺にまるでがさ入れの刑事のように張り付き、どの企業の幹部の方が抽選会場に来たのかまで見張るという徹底ぶりでした。その後出店が決まった企業が明らかになり、本格的な取り扱い交渉をどのメーカーよりも速やかに始めることができたのです。そのほか取り扱い交渉を促進するための方策として当時まだ空港島への上陸が関係者しか許されていなかったのですが、内装会社のT氏のコネクションを使って関係者一行の中にお忍びでライトバン2台にヘルメットを着用した得意先を乗せて入り込み、車で空港島の工事現場を見て回る見学会を実施したりもしました。出発ロビーのドリンクスタンドでは、狭い空間で効率的に飲料提供ができるように、清涼飲料と生ビールがマルチに出せる機器の開発をやったりもしました。いろいろなところにアンテナを張り、出来る限りの策を考え実行した結果、最終的にプロジェクトが目標としていた5割近い店舗のビール取り扱いを達成することになります。情報というのは、新鮮で正確であればあるほど価値があり、相手(得意先)の課題にいかに寄り添えるか(提案型営業と言っていた)が、大きく成果を左右する重要なものだということを身をもって体感したことで、その後の営業スタイルが大きく変わっていくのでした。

教訓

鮮度が高く正確な情報ほど、並みでは手の届かないところに宿る。だからこそ大きな価値があるのです。

 

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