活動の記録

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録VOL16

みなさんお元気でしたか

コロナも一段落した感があって、やっと一息つけそうな雰囲気になって良かったです。このタイミングでこれまで抑えてきた飲み会やイベントや旅行も計画できるようになったのではないでしょうか。今回の流行病で感じたことなのですが、人間は、動いて、いろいろなことを見聞きしたり、人に会ったりしていないと精神状態が不安定になってネガティブ思考になりがちということ。おとなしくし続けていると生きることに無意味さを感じてみたり、お先真っ暗感を感じてみたりするもんですね。どんどん動いて、人間に備わっている能力を使い倒すぐらいの勢いでいないと活力(エネルギー)が生まれないのでしょうね。例えば、終戦後の日本は、一面焼け野原で食べるものもろくに無いずたずたの状態であったにも関わらず、戦争という極限の抑圧状態から解き放たれ、「生きる」という一つの光に向かって全員が動き出したことで、日本人はとてつもないエネルギーを発したのではないでしょうか。そうでないと今日の日本は無かったに違いありません。平穏な時には使う必要のなかった潜在的能力をパンデミックが刺激し、エネルギーの発散ポイント(トリガー)として機能すれば、まだ見ぬ新たな世界が切り開かれていくのかもしれません。日本はまだまだ捨てたもんじゃない!これからです!

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録VOL16 (遊びに夢中)

1991年は、バブル景気の余韻がまだまだ日本中に漂っていて、バブルの塔ともいうべき西新宿の東京都庁舎が完成し、お立ち台ダンスが有名になったジュリアナ東京(クラブ)がオープンし、黒塗りのベンツやベントレーといった高級車が歓楽街の隙間という隙間を埋め尽くし、大阪の堺筋は駐車場と化していました。高級ブランドファッションに身を固めた女性たちが闊歩し、クラブラウンジは毎夜毎夜大盛況でボトルキープの棚は高級ブランデーで埋め尽くされ、海外旅行にゴルフにグルメ、宝石に絵画、クルーザーや別荘がどんどん売れて、忍び寄る大不況の予感などかけらも感じられない華やかな雰囲気に日本中が包まれていました。

得意先の中には、100万円の株投資が10日後に1000万円になっていたというので、毎日のように北新地に通っているという人がいるかと思えば、外国に愛人をつくって毎週通っている人もいました。北新地のある店に得意先の接待で行ったときに出くわした光景は、ママの誕生日プレゼントだといって、その店の常連が持ってきたのは車のカギで、下をのぞくと真っ赤なベンツにピンクのリボンがかけてありました。またあるときは、呑んだ帰りがけにラーメンが食べたくなったから今から札幌に行こうと言い出し本当に飛行機の時間を調べて空港までタクシーで行ってしまった人もいました(お付き合いしませんでしたが)。カネと酒で勢いをつければどんなことでも出来てしまいそうなお祭り騒ぎが夜な夜な繰り返されていました。このころの私は29才独身、心の余裕が少しづつ出来ていたので波に乗ればお金も遊びも手に入ったはずですが、うらやましさ半分、気後れするというか、身の丈にあっていないというか、地に足がついていないというか、自分にはしっくりと来ない華やかで狂気的なバブルの波にはその後もとうとう乗ることがありませんでした。BMWが六本木のカローラと呼ばれていた頃、背伸びして買ったのは中古のスカイラインでしたので、この時代に照らしてみればダサくて臆病で古風な人間だったと思います。

この年に会社の独身寮が新しく出来るということで、お世話になった枚方の公営住宅から17回目の引っ越しをすることになりました。引っ越したのは大阪ど真ん中、人形の問屋街で有名な松屋町の阪神高速が目の前を走る14階建ての新築マンションで、会社が単身者向けに一棟借りで契約したものでした。間取は5畳程度のワンルームで、ベットを置くとほかのものが入らなくなるような狭さではありましたが、なにせ都会のど真ん中で会社の寮扱いですから経済的にもよいし、通勤は近いし、都会暮らしにあこがれを抱いていたこともあって移り住むことにしました。引っ越ししたのは4階で、窓から外をのぞくと阪神高速の橋げたを見上げるコンクリートに囲まれた薄暗い部屋でした。文句を言える立場でもなく「寝るだけの部屋」だと妥協しつつ、上の階が空いたら移らせてほしいと総務部に要望を伝え、入居することになりました。

引っ越しのばたばたも収まり生活リズムにも少し余裕が出てきました。こうなると仕事以外にも打ち込める何かを求めていたいものです。そこで、数年前にヒットした「私をスキーに連れてって」という映画の中にアマチュア無線のやり取りをするシーンがあったのですが、このシーンが「かっこいい」とかねがね思っていたこともあり、アマチュア無線局の開局を目指すことにしたのです。当時は、携帯電話がまだ普及しておらず、アマチュア無線が大流行していて大阪の日本橋には多くの無線機屋さんが軒を並べていました。国家試験を受けて開局申請をし、無線機とアンテナを手に入れて車に積んでコールサインをもらっていよいよ開局することになるのでした。ハローCQ CQこちらはジャパン フォックスロット3…..初めて電波を発射しました。するとほどなくして自局のコールサインを反復する相手の声がしてきました。緊張でマイクを持つ手が汗でにじむほどの緊張の一瞬です。会話の内容は簡単な挨拶と受信状態のレポートを送って終了といったごくごく形式的で短いものでしたが、まるで知らない方と電波で繋がることに感動を覚えました。その後他人様のやり取りをマネしながら不器用ながら運用していたある日、仕事帰りの車や帰宅した家から日常会話をする数局のラウンド(順番に話を回して話をしていくこと)に出会います。内容を聞いていると、日常にあったことをたわいもなく話していてとても親しみを感じ、思い切って声を掛けて話をするうちに、実際に会おうということになり、昼食会に参加することにしました。初対面同士、職業も家族構成も年齢もさまざまな10人ほどの人たちとの交流がはじまりました。

数か月後9階の単身赴任の住人が転勤で部屋が空き、急遽18回目の引っ越しが決まりました。引っ越しが一段落し窓の向こうには、沈みかけた夕日にてらされた阪神高速とビルのシルエットの都会の風景がとてもきれいでした。どこかで見たようなデジャブを感じながらしばらく外を眺めていると、やがて日が落ちて、まるで映画のシーンが切り替わるように高速道路の流れる車のライトとビルの明かりの夜景が訪れ、ずっと眺めていても飽きることがありませんでした。仕事が趣味だという人がいます。たしかに一場面では仕事の虫になりひたすら仕事に打ち込むことも必要だと思うのですが、趣味を持つことの楽しさを考えたら、人生仕事ばかりではもったいないと思えるのです。それから、毎日の暮らしの中で自分をできるだけ居心地の良い場所に置くことが大切です。なぜなら一日一日の積み重ねが人生そのものなのですから。

教訓

流行などというものは、所詮通り過ぎる風のようなもの。人は人。自分は自分。 流され染まることがあっても自分を見失わないように。

 

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