活動の記録

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録(vol13)

お元気ですか

流行病が急拡大し始めました。より感染力の強いデルタ株への置き換わりが進行し感染速度が加速しています。ワクチンの接種も進んでいますが、新型コロナはとてもしぶとく収まる気配がありません。このような中、人間の経済活動が主な要因とされる地球温暖化の影響は、大雨や熱波による山火事など深刻な災害をももたらし始めました。一部の人間が勝手都合を優先してきた結果、地球が、自然が、共生する生物たちが悲鳴をあげているのです。このような地球規模の温暖化を食い止めようと、神様がウィルスを使って人間の動きを封じ込めているように感じています。

終戦記念日を前に、なぜ戦争をしなければならなかったのかを考えるに、人間のもつ「欲」が度を過ぎ、さらに「欲」が「欲」を生み、他人の土地に無断で踏み込むこともいとわず、力づくで奪い取りにかかるほどにエスカレートし、引くに引けなくなくなってしまったのではないかと思うのです。さらに言えば、これは国民を率いるごく一部のリーダー達の強権的思考であって、多くの国民はこの強欲の連鎖に巻き込まれ犠牲になっていきました。戦争によって得られたものは苦しみと悲しみしかなかったのです。なんとも不条理なことであって決して繰り返してはいけないことです。コロナ禍が去った暁には、戦争同様に人間の過ぎた「欲」こそが平和を乱す権化として反省し、経済活動や生活態度を改めて地球への愛と平穏な生活を取り戻したいものです。

さて、今の日本丸は、いよいよ猛烈なデルタ嵐の中に船首から突っ込みました。しかも働き盛りの国民は「丸腰」です。医療はひっ迫し救える命が救えなくなってきたという非常事態に操舵室にいるリーダーたちの手腕が問われています。船長は「五輪」や「選挙」に気を取られることなく、ウィルスとの闘いに本気になって向き合う意志と姿勢を示し、国民を巻き込み総力をあげて回避しなければ、多くの犠牲を覚悟しなければならないでしょう。私たちもウィルスとの闘いを真剣に受け止め、自分の命は自分で守らなければなりません。「丸腰」で「援護射撃」もないとなれば、わが身を守るすべは「セルフロックダウン」しかないでしょう。

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol13 (転職)

1988年夏、相変わらずラッシュ時の京阪電車はぎゅうぎゅう詰めで、じんわりと背中に伝わる汗と、ブレーキやカーブのたびに揺れる身体を支えるつり革を持つ手がちぎれそうになりながら通う毎日が続いていました。いよいよ神戸の新規店の立ち上げ準備も大詰めになり、心斎橋の店のリーダーとしてもバタバタとしていた一方で、私の転職作戦は隠密に遂行していきました。会社の人間には転職の素振りを一切しないように心がけて普段通り仕事をしているつもりなのですが、なんとなく中途半端な気持ちがぬぐえず、これまで職場の仲間として接してくれた人たちに対して裏切っているようなうしろめたさもあって精神的に不安定な日々が続きましたが、誰に相談できる訳もなく孤独に耐えながら応募先の決定や履歴書の作成、面接の予行練習などの準備を整えていきました。

中途採用募集をしている会社の中から自動車、音響、食品の大手の会社に絞って、面接を受けることにしたのですが、唯一実家の母には受験する会社の中でどこが良いと思うか電話で相談しました。「人間はどんな境遇にあっても飲食を止めないから食品業界が良いと思うよ」とアドバイスをくれました。いよいよ面接を受ける時がやってきました。面接日程の都合で、一番最初に自動車会社の面接に行くことになったのですが、受付を済ませるなり簡単な面接があって多くの受験者が座っている大きな部屋に通され、いきなり待遇や諸規定の説明をマイク越しに淡々とはじめられたので、「十把一絡げにモノ扱いされて枠にはめられる」ように感じがしたのです。どこかで感じた雰囲気?そう!今働いている会社の新入社員研修のあの光景がシンクロしました。「やばい」と感じその場で会社の方に辞退を申し出でたところ、怪訝そうに辞退の理由を聞かれたので、正直に感じたそのままを伝え、正社員になれるかどうかストレートに聞くと、答えは製造部門の期間工募集がメインで正社員登用も可能というのは飾りのようなものでした。ということで第一回目の面接は、給料の提示額は良かったのですが見送ることになりました。

次の日程はビール会社の営業部員募集の面接でした。淀屋橋のビジネス街の土曜日はほとんど人影がなくひっそりとしていました。立派なオフィスビルの中にある大阪支社を尋ねると入口にある待合室に通されました。しばらく待っていると、前の面談者が面接を終わって面談室から出てくるところでした。次は私の番です。名前を呼ばれて面談室に入っていくまでの間、まるで宙を歩いているような緊張に襲われ、手には脂汗がにじんで呼吸は荒くなっていましたので、ドアの手前で深呼吸をして一拍置いてドアをノックして入室しました。そこにはいかにもインテリな面接官が2人いて、これまでの職歴や仕事に対する考え方など紐解くように丁寧に30分程度質問されたのを覚えていますが、実際何を聞かれてどう答えたのか詳細は緊張のせいか覚えていません。この日は、「やれることはやったダメでもともと」というすがすがしい気持ちになっなって面接会場を後にしました。それから1か月後ぐらいに連絡があり、今度は東京の本社に来てほしいとのことです。どうやら1次面接は合格のようでした。

うれしい気持ちよりも次に控える2次面接が目の前の大きな壁となってプレッシャーをかけてきました。しかし何を対策できるわけではなく10月の指示されたある日東京本社に向かいました。そこは大手企業の本社にふさわしく11階建ての立派な自社ビルがそびえ、エントランスはガラス張りの自動ドアがあり車寄せの道路の周りはきちんと手入れをした植栽がほどこされ警備員が立っていました。これまでまったく縁が無かった凛とした光景を目にして圧倒された私は、「場違いなところに来てしまった。」と急に弱気になってしまいました。しかし、ここで引き下がる訳にはいかず、恐る恐る中に入ると受付の女性がにこやかに挨拶をしながら要件を聞いてきました。促されるようにエレベーターに乗って会議室に通されたのですが、そこには私を含めて10名の受験者が座るようにセットしてありました。試験官から、適正検査(筆記式)、会社説明、諸規定などを経て、役員面談があるというスケジュールの説明があり、二次面接は粛々と進められていき、いよいよ気がかりだった最後の役員面談のときがやってきました。

大きな圧力でつぶされそうな張り詰めた緊張の中、個別に名前を呼ばれるのを待っていると、「皆さん役員室にご案内します」と声が掛かり、なんと会議室にいた10名全員が役員室に入るように促されたのです。エレベーターでさらに上の階に到着して立派な家具、調度品の置かれた部屋に通された10名が横一列に並んで待っていると、背筋がピンと伸びた大柄な紳士が入ってきました。なんと社長でした。部屋に入ってきた瞬間から空気がピンと張り詰めるほどのオーラがありました。挨拶を交わし穏やかな語り口で話し始められたのですが、メリハリの利いた締まりのある口調で「ライバルメーカーの新商品に押されてている中、営業の一線で活躍を期待している」と話をくくられ、これこそが役員面接で、ここにいる10名の採用が内定したことを悟りました。この時、西の窓から雲に隠れていた茜色の斜陽が社長の背中越しに差してきて、大柄なシルエットがまるで後光のさした神仏のように映ったのが強く印象に残りました。最後に「君たちは我社のことを知らないだろうからこれを読んで勉強しなさい」と社内報のバックナンバーを数冊まとめて渡され、退出となりました。その後人事担当者から正式に全国採用の正社員として内定を告げられ、今後のスケジュールの説明を聞いて解散となりました。帰りの新幹線の座席に座り、ついた一息でようやく緊張感から解放され、安堵と喜びに包まれました。ろくに勉強もせず、無名の大学出の私が、遠く霞の掛かった大企業に認められ、あこがれていた入社の切符を手にいれることができた。「これはまさに奇跡」だと高揚する気持ちでいっぱいになりました。しかし、大井川を渡る頃から、「とてつもない大企業に入社することになってしまったが、本当にやっていけるのだろうか?」という不安が襲ってきました。うれしさと不安が交錯したまま枚方の自宅までの道のりをどのようにして帰ったのかわからないくらいぐるぐると思いが巡っていました。

教訓

〇転んでもいいじゃないですか。ここぞと思ったときはやってみることです。

〇土壇場で覚悟できるのは、日々の積み重ねがあってこそです。

〇人生に遠慮も謙遜もいりません。精一杯生きていれば「奇跡」が起こります。

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