活動の記録

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol14

お元気ですか?

世界中に新型コロナの感染が広がり1年半以上が過ぎましたが、日本では感染が収まるどころか、感染者数が過去最高を更新し続ける状態になり、都会では事実上の医療崩壊が起こり、命が危険にさらされる状況に陥ってしまいました。早く収束することをお祈りしつつ、このような脅威が人間を強くたくましくして、人々の考え方や生き方を変え、世の中の大きな転換期となっていくのだとも感じています。コロナ禍が明けた先にある景色はどのようなものなのでしょうか。これまでの当たり前のおだやかな暮らしが少しでも戻ってくれれば良いと思う反面、これまでにない新しい価値が生まれて彩を添えてくれることも期待しています。

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol14 (新たなるスタート)

1989年は、1月7日昭和天皇ご崩御、平成の元号がスタートし、2月にソビエトがアフガニスタンから撤退、6月に天安門事件、11月にベルリンの壁崩壊と世界中が激動の年になりました。日本はバブル経済の真っただ中で、再開発が盛んにおこなわれ、あちらこちらで建設ラッシュが起こり不動産価格が急騰、株価も上昇し、余りあるお金は海外旅行、ゴルフ、高級ブランド品、宝石や車、クルーザー、別荘、外食、夜の社交とありとあらゆる贅沢に使われている夢のような時代でした。前の年に転職先の大手ビールメーカーの中途採用試験に合格し私の人生にとって、就職して約5年27才で「転職」という大きな舵を切った分岐点の年でした。

いよいよ現職の洋菓子メーカーを退職しビール会社への転職を決意しました。いち早く相談させて頂いたのは、現職場の就職のときにお世話になった経営コンサルの先生でした。転職の意志を正直にお話すると「あなたのやりたいようにすればよろしい」とお許しをいただきました。次にお世話になったK部長も、同じくお許しくださいました。その後人事部長が直接引き止め交渉にやってきて、「大企業に入っても中途採用ではどうせ出世など出来ない。冷や飯食いに終わるぞ」と言ってきました。しかし私の気持ちは変わることはなく、「お世話になりました」とご挨拶をして静かに去ることにしたのです。しかし、職場の同僚や近しい仲間の動揺は抑えきれず、ある人からは「裏切者」と言われ、ある人からは「転職のやり方」を問われたりと様々な反応に周囲が相当波立ちましたが、私はむしろいよいよ大企業の一員になれるという高揚感と次の職場でやっていけるのだろうかという不安感が入り混じった先々の見通しのほうがとても気がかりでなりませんでした。未知の領域に踏み込んでいくというのは、希望と不安が入り混じったとても複雑なものなのだと改めて実感しました。

2月にいよいよビールメーカーの新人研修がスタートしました。東京に泊まり込んで、本社の座学にはじまり東京支社の現役営業マンとの同行やビール工場での製造工程実習等々短期集中の凝縮された研修内容でした。その後赴任地が発表され、私は大阪支社のN部長が率いる料飲チェーンの営業を行う部署に着任することが決まりました。朝礼で一通りみなさんにご挨拶をし終わるとM課長から呼ばれしばらくの間マンツーマンで私の教育係していただけるということになりました。初日の夜に、仕事に一段落ついたメンバーで簡単な歓迎会をしてくれたのですが、さすがビールメーカーの営業で、生ビールをいきなり人数分頼んだかと思うと、乾杯のあとみんなジョッキのビールを豪快に飲み干すのです。その速さは別次元で目が点になりました。これまで甘党の会社にいて、もともと酒があまり強くなかった上に酒の席が少なかった私は、少々無理して同じペースで飲んでいると、真っ赤な顔になり心臓がバクバクでたまらずトイレ直行となりました。しばらくトイレの個室で落ち着くまで安静にしていてトイレから出てきたころには皆帰る準備をしていました。「大丈夫ですか?」とやさしく言葉を掛けられるのですが、どことなく「この先仕事やっていけるの?」といった含みのある素振りを感じ、「すみませんでした」を連発するしかありませんでした。半分しらけたような中途半端な歓迎会は会話も早々に終了となりました。ふらふらになっていたのは、身体だけではなく、不安に押しつぶされそうな心でした。

どのように帰ったかは覚えてないのですが、自宅で迎えた朝は、さわやかな日差しとは裏腹に打ちのめされたボクサーのような脱力感が漂っていました。それでも休む訳にはいきません。気合をいれて少しむくんだ顔を洗い頬を2~3発叩いてスーツを着込み地獄の満員電車で会社へ向かいます。車中では「やはり酒が強くないと務まらないのかなあ?場違いなところに来てしまって周りに迷惑をかけるのではないか?」とか「いやいやこのままでは終われない。終わってたまるか。」電車に揺られながら何度も自問自答を繰り返していました。

この日からM課長の随行営業が始まりました。得意先は料飲チェーンの本部です。当時のビール業界はドライブームでお客様が指名するのでドライを置きたいというチェーンが多く、我社は劣勢に立たされていました。ひとたび銘柄が切り替わると何十店舗が他社の取り扱いになってしまいますので、お得意先をつなぎ止めて取り扱いの継続をお願いするのと、新規の顧客を獲得するが主なミッションでした。夕方まで本部まわりの営業随行、一旦事務所に帰り書類を整え夜は飲食店を一軒づつビールとつまみをオーダーして店主とのコミュニケーションを図るドブ板営業の随行をするのですが、表向きは仕事なのですが、3軒目には酔いも回ってただの酔っ払いになっていました。ときに終電を逃すこともあったのですが、M課長はタクシーチケットを渡してくれてミナミの繁華街から枚方までタクシーで帰ることもありました。毎日繰り返される日々の営業実習にはさすがにくたくたで、M課長の横に座って商談をするのですが、睡魔が襲って瞼が下がりコクンとなることもありました。それでもM課長の支えがあって徐々に仕事を覚えていきました。

営業実習が始まって3か月が過ぎた頃、ようやく仕事の内容やチームの全体像が見えてきました。部署のメンバーはほとんど有名大学卒のエリート揃いで会議の発言ひとつとっても論理的で高尚な言い回しで説得力がありました。前職の洋菓子メーカーのように社長の言うことに右向け右の硬直した組織の会議とは格が違っていました。例えば「PDCAサイクルを回せ」とビジネス書に書いてありますが、PLAN、DO、CHECKを時系列でそれぞれの施策、個人目標に落とし込まれて進捗状況やプランの修正を適宜行っていました。しかもN部長は個性の強いメンバーを理解し、ほどよく緊張感があって風通しの良い組織づくりをされていました。また豪快にビールを飲むことでも社内で有名な大物でした。レベルの高いマネジメント力と個人資質は私にとって経験したことのない桁外れのものでした。タフな身体と精神力、そして営業力とマネジメントスキルがなくてはとてもついていけません。見聞きするのと実際にやるのとではまるで別物。大きな壁にぶちあたった感覚が全身を包み「一人前になって即戦力になるには人の3倍努力しなければだめだ」と心底思うようになったのでした。それからというもの日々勉強、真剣勝負の日々が続きます。

教訓

退職や転職の理由を他人や会社のせいにしていませんか?主体は自分自身です。自分が決めれば良いのです。

「楽をするより楽しんで」 楽しみながら事を進めれば辛さも和らぎ人生が充実していきます。

みんな孤独です。だからそばにいる人を大切に。

酒の量はほどほどに。

 

 

 

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