活動の記録

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol15

お元気ですか

みなさんお元気にされていましたか?ようやく新型コロナの第5波が収束し緊急事態宣言も解除となり、コロナ前の日常が見えてきたような気がします。しかし、ウィルスの実態が解らないところが多い中、人間の力で封じ込めたという人たちがいますが本当にそうなのでしょうか?「なぜ収束したかコロナに聞いてみないとわからない」というのが本音のような気がします。そしてこの第5波のインパクトはオリンピックと重なり、医療が受けられないまま亡くなる方が急増したことで、連日のようにコロナの報道がなされていたのですが、収束と同時にマスコミは何もなかったかのように話題にしなくなりました。いかに話題というのはいたずらに人の感情を揺さぶり、熱しやすく冷めやすい移り気でつかみどころのないものなのかを特に感じた場面でもありました。時として光が当たり、陰り、闇の中をさまよい、都合が良いこともあれば不都合なことも起きる。めまぐるしい変化の中で一喜一憂しながら不確実な世の中を生きている実感が湧いてきます。先のことを案じ難しく考えてもどうなるかわかりませんし、決して満足のゆく状態ではないにしろ、その時その時を楽しんで生きることが幸せに繋がっていくのかもしれません。

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録(vol15 転職の先にあるもの)

ビールメーカーに入社して半年が過ぎようとしていました。実力不足を補うには「人の3倍努力をしないとだめだ」と自分に言い聞かせしゃかりきになっていました。酒好きな友人に話をするととてもうらやましがられたのですが、当時飲食店への飲食を伴う顔出し営業は、プロモーショナルドリンクと言って業務として認められていて、費用も会社持ちでした。夜は何件も得意先の飲食店に訪問しビールを飲んでは酔っぱらって家に帰り、朝は二日酔いの眠い目をこすり満員電車に揺られ、日中得意先回りをしてまた夜の街に繰り出す毎日でした。今から考えれば、「家庭と身体を犠牲にして会社に尽している」と、もっともなことを言う社員もいましたが、2軒も訪問すれば単なる酔っ払いおやじでしたので、本当にそうだったかは謎です。酒を飲むことが仕事などと世間の人が聞くと、とうていあり得ないという印象かもしれませんが、当時の社内では「仕事をたくさんしている」といったある意味のステイタスでもありました。いい加減でもあり、おおらかでもあった時代でした。

およそ30年前の当時はパソコンも携帯も普及していなかったため、すべての書類は手書きで、稟議書などは間違いを上司に赤ペン添削されると一から書き直しでしたので、酔っぱらっているのか仕事をしているのかわからないようなメリハリのない生活の中で、やりきれない事務処理が溜まっていきました。そこで会社が休みで電話もこないしほとんど邪魔する人がいない土曜の出社が、唯一落ち着いて事務処理が出来る時間だと知り、しだいに土曜出社の常連になっていったのでした。同じ境遇なのか、はたまた仕事好きなのかわかりませんが、いつしか土曜出社の顔ぶれは決まってきて、出てこない人がいると「今日はどうしたのかなあ?」などと余計な心配をしていたほどでした。当時遊び盛りで結婚適齢期の27才。こんな日々を送っていた私は、遊ぶことも恋愛することもお預けにして、目の前にある仕事をとにかく一人前にこなせる人間になりたいとばかり考えていましたので卑屈になることはなかったものの、知らず知らずのうちにストレスが溜まっていったのでした。

1990年3月の大阪。エキスポ90「花の博覧会」の会場内のある飲食ブースで、オープンに向けお得意先と生ビールの機器セッティングに立ち会う私がいました。この博覧会はビール業界にとって「ブランドの露出」と「販売実績の確保」という重要な場面であったのです。私の入社した1989年から会場内のビール取り扱い交渉が始まっていました。私はこのイベントに出店するある他社銘柄取り扱いの企業を担当することになりました。後でわかったことなのですが、私の所属部署の動きと並行にイベント対策室が立ち上がっていて、偶然にあるイベントの視察で室長とここの社長と知り合ったようで、タイミングよく今回の面談につながったのでした。この社長面談で窓口として専務を紹介されました。さてビール営業の駆け出しの身、課長との随行OJTをさせてもらっていたとはいえ何をどのように組み立てたら良いのかわかりません。次の商談でいきなり「花博のビールの取り扱いは是非我社に」などと話したところで取合ってくれるはずもありませんし、「我社のビールはおいしいですよ」とヤボなセールストークを発したとしてもしらけるだけです。あれこれと考えてみるのですが、はっきりとした商談展開が描けないまま次のアポイントをとることになってしまいました。しかし、時間をかけて相手の懐に入ることができれば、相手の課題や要望を聞き出せるのではないかと考えて、場当たり的でしたが素の自分をさらして臨むことにしたのです。専務との面談を重ねるうちに、相手のことが徐々に解りはじめ、次第に打ち解けて一緒に会食できるまでの関係になっていきました。花博開催まで半年を切り、最終クロージングの段階に入り条件提示ののち、20年以上他社メーカー取り扱いのこの企業の飲食ブースを当社品の取り扱いで初めて契約することができたのでした。その後この企業との良好な関係は続き、新たなイベントブースのビールの取り扱いを当社品にしてくれました。会社を辞めた今でも関係は続いています。どうしてよいかわからない状況の中で勇気を出して飛び込むことで手にしたこの出来事は、私にとってその後の大きな自信となり仕事が軌道に乗り始めます。

新たな事にチャレンジしている皆さんの中には、なかなか結果が出せずに先が見えない不安に押しつぶされそうになっている方もいるのではないでしょうか。例えば、平均台の上を歩いているとき不安に襲われて足元を見た瞬間にふらふらと身体が不安定になってすくんでしまった経験はありませんか?一旦うずくまってしまえば立ち上がるのは容易ではないですし、後ずさりすることも、振り返って元に戻ることも難しい。要するに危うい状況にあるということです。このような状況の中で他人様からネガティブな事を言われたり、自分自身が弱音を吐いたりするととても前に進めないと考えてしまうものです。ですからネガティブなことは「聞かない」「言わない」「気にしない」と自身に言い聞かせて「私は大丈夫」と暗示をかけて不安と恐怖を振り払って一歩一歩前を見て進むしかないわけです。

先人が「目標をたてろ」とよく言われるのは、ゴールを決めて視線を向ける方向に目印をつければ前を向きやすくなるということだと思うのです。私がサラリーマンであった頃は、仕事の目標を作れと言われれば、目的、手段、納期、成果指標などを時間をかけて仰々しくまとめるものだと思っていました。しかしそれは組織やチームの一員として人様と共有するためでもあって、実のところ一度作って発表したら、ほぼ棚上げになっていました。還暦を直前に控えた今、人生を生きる上で「使える目標」というのは、自身の腑に落ちているブレないもので、必要とあらばいつでも唱えることができる案外シンプルなものではないかと考えるようになりました。ですので数時間後に叶えたいものであっても3年先のものであっても未来の領域にあるもので真に「こうしたい」「こうなりたい」と思えることを、ありありと自身に唱えられればそれが目標になるのだと思っております。

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