活動の記録

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol4

お元気でしたか?

流行病の第三波も勢いがゆるんでだいぶん収束してきましたが皆様お元気でしたか。世の中経済的にかなり厳しい状態が続き、この先の不安もつのる一方なのですが、振り返ってみますと、75年前に戦争に負けて焼野原からの復興を遂げ、阪神淡路大震災や東日本大震災など多くの犠牲者をだした災害を乗り越え、経済ではオイルショック、バブル崩壊、リーマンショックと数々のどん底を乗り越えて来た日本。これまでの仕事が生活がことごとく崩れ去り途方に暮れて明日をも見出せない日々もあろうかと思いますが、それでも何とかなると信じて前向きに進めば、今回も皆の力で乗り越えていけるのではないかと思います。私も数年前に長年お世話になった会社を離れ、個人事業を立ち上げることを決意したのですが、その時は未来に向かっての希望とは裏腹に大型船から手漕ぎボートに乗り移って大海原を木の葉のように舞っているようで、何とも頼りないく不安な日々も過ごしてきました。未だ一人前の経営者には程遠い業容ではありますが、毎日をたとえ1mmでもよいので前に進ませてくださいと祈りながら毎日を過ごさせていただいております。さて今回は引っ越し歴27回のおじさんの回顧録voi4中学生のころをお届けいたします。

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol4(姫路編~中学時代~)

埼玉で中学に進学したのもつかの間、1年の2学期に父の転勤で家族で兵庫県姫路市に引っ越すことになり私にとっては9回目の引っ越しとなりました。埼玉からは自家用車で家族4人泊りながら姫路まで東名高速と国道を延々移動しました。国道2号線を西に向けていくと姫路市街に入る手前に市川という川があり、夕方の茜色に染まった橋を渡れば「やっと着いた」と安堵した記憶があります。新しい学校に始めて登校した日から近所の友達が出来ました。むこうからすれば関東から来た転校生は珍しく興味があったのでしょうね。しかし、姫路は関西弁のエリア。言葉には戸惑いを感じました。学業のほうはもともとダメな上に、授業の進行状況が違いすぎていたこともあって次第についていけなくなりました。なんとも達成感がない空虚な日々の連続を埋めたのが、剣道と自転車いじりとラジオとレコードでした。剣道部に入り、朝6時に起床して朝練に行くのは大変でしたが、やっているうちに仲間や先輩も出来てコミュニティーが広がっていきました。転校を重ねているうちに新たなことに飛び込むことに慣れていたのか、そもそも好奇心旺盛な性格だったのかわかりませんが、新たなものに飛び込むのはあまり抵抗を感じなかったように思います。勉強ができないからと塞ぎこめばそれまでだったかもしれませんが、積極的に行動に移したことで身の回りの環境もその後の身の振り方も変わっていくものなのですね。

休みになると小学生も卒業するころに買ってもらった自転車をピカピカに磨いてはばらして油をさして組み上げるのが楽しみで、裏山に砂利道の登山道があって登りきると姫路城を中心に姫路の街が一望できるのですが、よく自転車を漕いで汗だくになりながら登りました。荒くなった息をおさめ、汗をぬぐって頂上から下界に広がる街を眺めているとなんとも言えない達成感が沸いてきました。今から思うと勉強ができない不出来な自分に対し、満たされない心の隙間を埋める膨らし粉のようなものだったのかと思います。他人様からみると「つまらない」ことかもしれないのですが、どんな小さなことでもやっていることには必ず意味があり無駄なことは一つもないと思うのです。

昭和50年ごろはオーディオブームで我が家にもセパレートステレオという大型家具みたいなオーディオが来ました。FM放送をエアチェックしてカセットテープに録音するのが流行っていて、ポップスの番組をエアチェックしては目当ての曲が掛かるタイミングでカセットデッキの録音ボタンを押して好きな曲集を作っては宝物のようにしていました。ちなみに初めて小遣いで買ったレコードのLPはなんとKISSの地獄の接吻でした。ピンクレディとか山口百恵とか歌謡曲のアイドルが全盛のころでしたのでしたのでなんとも変な中学生でした。そしてもう一つの流行が、遠く世界の短波放送を聴いて受信報告書を送るとオリジナルのベリカードをラジオ局から送られてくるのをコレクションするBCLブームがありました。あるとき廃品回収に出されていた真空管ラジオを持って帰って外れたハンダを適当に付け直して電源を入れたらいきなりNHKの短波放送が飛び込んできたのに感動して、なんとかBCL専用のラジオを手に入れたいと思いはじめるのですが、専用のラジオは高価でとても中学生の小遣いで買えるものではありませんでしたので、もっぱらカタログに穴が開くぐらい眺めてはあこがれを募らせていました。あるとき質屋のウインドウにお年玉をやりくりすれば手に届きそうな目当てのラジオが置いてあるのを発見し、とうとう手に入れました。この時の経験以後、手を伸ばしてもすぐに届かないものが欲しくなったとき、カタログを手に入れて毎日「こんなのが欲しいなあ」と見るようにしていると、神様が願いを聞いてくれたかのように不思議にバイクでも車でも家でも欲しかったものが手に入れることができています。

このころの想い出のひとつに修学旅行があります。行き先は東京、箱根、富士山を巡る3泊4日の行程でした。初日の宿泊は新宿だったのですが、部屋のグループの仲間が割とミーハーで、部屋に女の子を呼んでワイワイしている間に点呼の時間になり返せなくなった女子を押し入れに閉じ込めて寝たふりで電気を消したのは良いのですが、点呼の先生が扉を開けたと同時に明かりがつき、スリッパの数に足がついて全員廊下で正座。2泊目は箱根の旅館で2階が女子、3階が男子の部屋割りだったのですが、だれともなくシーツをロープ替わりに縛って2階の女子の部屋をのぞこうと言い出して一人がシーツにつかまり、他の全員でシーツをゆっくり下ろしていたのですが、最中に結び目がほどけてつかまっていた友人は錦鯉の池にドボン。この日も全員廊下に正座。3泊目はさすがにおとなしく寝ようということになっていたのですが、誰かが「屁」をしたのに続いて、もう一人が「屁」をしたのが皮切りにメロディーに発展。くすくす笑いが爆笑に。この日も全員廊下に正座。3泊がすべて廊下に正座の修学旅行でしたが、生涯忘れえぬ修学をさせてもらいました。いよいよ不出来な中学3年生は高校受験の時期にさしかかりますが、2学期の終わりに我が家は家を購入することになり10回目の引っ越しをすることになります。

 

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