活動の記録

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol7

みなさんお元気ですか?

桜が満開になり、春本番の陽気になってまいりました。大阪では残念なことに新型コロナの感染者が再び上昇しており、予断を許さない状況ですが、窮屈ですがだれのせいでもありませんので感染対策を今一度引き締めてまいりましょう。コロナ禍に見舞われて1年が過ぎました。コロナ禍前のことを思えば仕事や生活が目まぐるしく変わったことで、飲み会やったり、旅に出たり、会社に出勤したりしてリアルコミュニケーションがあたりまえだったものがリモートでやるようになり、私のように「ITリテラシーが無いのでごめんなさい」という昭和おやじも、勉強しなおして、これからの生き方や考え方を根本からシフトしていかなければならない時期にきていると思っております。まして人生100年時代と言われる時代になり、まだまだ人生先が長いという状況ですし…これまでの考え方の延長で「定年退職後はのんびりなどといった老後像」はもはや語れなくなってきました。これから必要になってくるヒト、モノ、サービスは何か?どのように働けばよいのか?いつまで現役を続けるか?どのぐらい稼ぐか?お仕事の在り方も自身でプランニング実行していく時代なのですね。今回は私が大学2年生時代のお話をさせていただきます。

引っ越し歴27回のおやじの回顧録VOL7 (19才大学2年生編)

時に昭和56年(1981年)流行は松田聖子、田原俊彦、近藤正彦などアイドルの全盛期でもあり、YMOが奏でるテクノポップもよく流行っていました。これまで違法とされていた貸しレコード業が公に認められて、多くの学生が利用し始めた頃でした。人気テレビ番組のひとつが「俺たちひょうきん族」。ビートたけしや明石家さんまの登場で、これまでの漫才一辺倒だったお笑いの世界にニューウェーブがきたころでした。日本の経済が安定し、「家電」、「車」、「家」ほしいものに手が届くようになり、「娯楽」、「ファッション」、「エンターテイメント」さまざまなジャンルで人々が楽しめるようになってきた時代でした。このような時代背景があってか、私が通った大学の駐輪場には、中型大型のバイクが溢れ、入学祝いに流行のスポーツカーを買ってもらった同級生もいました。国分町のディスコの黒服のバイトで高額な小遣いを稼いでいた者もいました。そんな中、なんとなく学生やって親の仕送りで「のほほん」と暮らしている若者(私も含め)も多くいました。戦中戦後の貧困飢餓時代を命がけで生き抜かれてこられた方にとっては「平和ボケ日本」の象徴に映ったことでしょう。

14回目の引っ越し

新聞奨学生に挫折した私は、お世話になった新聞店の所長の家を去り、14回目の引っ越しで大学近くの民間が経営する真ん中の廊下を挟んで両サイドに部屋が並ぶ長屋式の学生寮に移ることになります。ここに決めたのは家賃が安く食事をあらかじめ予約しておけば作ってくれるサービスがあったからでした。間取は6畳一間で風呂、トイレ、洗濯場、食堂は共同でした。家財道具といったら、ふとんとラジカセと着るものぐらいでテレビは持っておらず唯一の財産といえるものはバイクでした。引っ越しの初日に挨拶をしたら学部は違いまいしたが同じ大学の先輩と同級生が10人ほど住んでいました。「流浪の民」持ち前のすぐに溶け込める雰囲気があってか、警戒心が強くおとなしい性格の東北人ともすぐに親しくなり、テレビを持っていたS先輩の部屋に入り浸ってはテレビを見せてもらったり、コーヒーをごちそうしてもらったりしてました。代わりにバイクの後ろに先輩を乗せてよく貸しレコード屋に通ったりしているうちにあっという間に住人の仲間として暮らせるようになりました。またC先輩は、当時神戸で行われたポートピア博覧会を見るのに、仙台から私の実家のある姫路までバイクで遊びに来てくれたりしました。

この世の者ではない

そんなある日のことです。自分の部屋で寝ていたのですが、急に金縛りのあったのです。うなされながら目を開けると、白い煙が人間のかたちになったようなものが私の脇を抱えて布団から引きずりだそうとしていました。もがいているとパッと金縛りが解け、静まり帰った暗闇の中で半身を起き上がらせて茫然としていたのです。あくる日に同じ寮の先輩にこの話をしたところ、廊下を誰かが走る音がするので扉を開けて廊下をみると誰もいなかったとか、夏の暑い日に扉をあけてテレビをみていたら扉のあたりに人の気配がして友人の名前を呼んだけれど返事がないので振り向くと誰もいなかったとか、複数の先輩から現実離れした話が帰ってきてびっくりしたことを覚えています。何か得体のしれないものがこの寮に住み着いていたのかもしれません。このことからおよそ半年後にこの寮は、経営していた会社の本業が傾いて取り壊すことになってしまいました。

新たな出会い

新聞奨学生をやめ、時間に余裕が出来たにもかかわらず、もともと苦手意識のあった勉強のほうは、出遅れた気後れ感も相まってさっぱりでしたが、大学の先輩や同期との人間関係が広がっていき、大学というフィールドに身を置いている実感がすこしづつ湧いてきました。しかし、学生の本業ともいうべき勉強に身が入らず、かといって何かに打ち込む訳でもなく、はっちゃけて遊ぶ金は無く、仕送りと学費を出してくれている親に対して無駄に時間とお金を費やしている後ろめたさが相まって、中途半端な自分が情けなく晴れない状況が続いていました。ある日、バイクのガソリンを給油するための立ち寄った大学近くのガソリンスタンドでみつけたアルバイト募集の張り紙を見つけて、面接を受けることにしました。新聞販売店で1年間だけですが住み込み体験があってか、妙に接客には自信がありましたが、面接合格で大学2年の途中からガソリンスタンドのアルバイト生活が始まりました。このとき「大人に認められた」ことがとても嬉しく何か吹っ切れたような気がしました。ガソリンスタンドの仕事は給油だけではなく、洗車やタイヤやオイル交換、一年点検や車検など車関係の仕事がいろいろとあります。中でもキツイのが冬のタイヤ交換です。仙台に初雪が降るとたちまち夏タイヤから冬タイヤへ交換する車で溢れかえります。次から次とタイヤを交換しなければなりませんが、なにせ中腰でタイヤを持ち上げてナット止めをする作業の連続で、しかも冷たい雪解けの泥水を含んでいるので、持つ手の軍手や作業着はボトボト、野外作業なので身体の芯まで冷えて閉店近くになると腰痛で動けなくなることもありました。それでもガソリンスタンドの社員のみなさんはとても優しくしてくれました。中でもメカニックをされていたⅯさんとは仲良くさせてもらい休みになると社員寮で鍋を食べさせてもらったり、スキーやハイキング、ドライブと公私の隔たりなくお付き合いするうちに、ガソリンスタンドの常連のお客さんともつながってあっという間に大学関係以外のネットワークが広がっていきました。仕事もどんどん覚えていき、最終的にバイト長という肩書をもらい、新人のアルバイトに仕事を教えたり、人員不足の穴埋め要員を勧誘したり、オイルやガソリンタンクの水抜き剤の販売コンテストをアルバイト同志でグラフをつけて競争したりと任されれば任されるほど仕事はきつかったですが、やりがいを感じて楽しくなっていきました。新聞奨学生をやめて空虚だった心中も仕事を通じて他人様に認められ、満たされていくのを肌身で感じていました。

教訓

私のように学業が苦手な者は、大学というところは不向きです。しかしながら、社会へ一歩踏み出す手前の「踊り場」としてはとても有意義な場所だと思います。なぜなら「働くということ」、「お金とは」、「人間関係とは」など社会に出てからなかなか他人様に聞けない必要なスキルを、失敗を恐れることなく実践によって経験出来るからです。もし学業に疲れた学生諸氏がいたなら、ためしに残りのキャンパスライフを新しいことや興味があることに打ち込んでみてはいかがでしょうか。きっとその経験が未来につながっていくと思います。但し最低限卒業に必要な単位はとってくださいね。

 

 

 

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