活動の記録

引っ越し歴27回のおじさん回顧録 vol 2

お元気ですか

新型コロナウイルスが日本ではやり始めたのが昨年2月のダイヤモンドプリンセス号のあたりでしたので、あれからおよそ1年になりますが、第2波は収まる気配がありませんね。出来るだけ早く収束して、元の生活を取り戻したいと願うばかりです。

今から100年前(大正8年)に流行したスペイン風邪では、当時の人口が5600万人に対し45万人が命を落とし、猛威は3年余り続いたという記録が残っております。当時は、これといった薬も無く、予防策は今と変わらずマスクとうがいの徹底、ソーシャルディスタンス以外なすすべが無かったようです。ところが、流行から3年目に免疫を持つ人が増え、嘘のようにぱたりと感染が無くなったそうです。

流行病は終わりなき戦いではなく必ず収束するものであるということと、先人たちが同じ国難を乗り越えてこられた事実を知り、先の見えない不安な日々の中で改めて勇気と希望を頂いた気がします。

 

引っ越し歴27回を語る(埼玉編~その1~)

生まれは岡山県、小学3年の1学期までは北海道で過ごし、いよいよ父の転勤で家族は埼玉県大宮市に5回目の引っ越しをすることになります。昭和45年当時は、東北新幹線もない頃で移動は特急と青函連絡船を乗り継いでの長旅です。幼かった私は、じっとしていられず列車の中を探検していましたが、中でも食堂車は、真白いテーブルクロスの4人掛けの席が整然と並び、厨房からこれまで嗅いだことのない洋食の良い香りが漂ってくる特別な場所で、扉越しによく匂いをかぎに行ってました。駅弁、針金の柄のついたプラスチック容器のお茶、冷凍ミカン、オルゴールの「鉄道唱歌」から始まるアナウンス、JNRと書かれたメッキの灰皿、食後に漂うタバコの青い煙は、車窓の景色以上に今でも脳裏に浮かびます。上野駅に到着し列車の扉が開いたとたんに、蒸し風呂のような暑苦しさで息が出来ないという洗礼を受け「これが東京なんだ」と顔を歪めたのを覚えています。この頃の大宮は、晴れた夏の日中は必ずと言ってよいほど光化学スモッグ注意報が発令され、全校集会でグラウンドで校長先生の話が始まるとバタバタと生徒が倒れていきました。ある日近所の家族と荒川の河川敷に遊びに行ったことがありましたが、その支流ではポコポコと不気味な気泡が噴き出し、化学的な匂いとドブ臭の混ざったどす黒い水が、粘り気のあるゆるい流れをつくっていました。このころの日本は高度成長期で、大阪で1970年万国博覧会が開催された年でもあり、とにかく活気があった一方、有害物質の放出で環境破壊がものすごかったのです。自然いっぱいのところで育ったどさん子にとってはいささか過酷な環境でした。

 

引っ越ししてからの家族行事といえば、月に一度アメ横に家族で買い出しに行くことでした。そのついでに秋葉原の電気街でラジオの組み立てキットを買ってもらったり、御徒町でとんかつをごちそうになるのが楽しみでした。あるとき父が秋葉原の電気街で我が家初のカラーテレビを注文し数日後に配送してもらうことになったのですが、その日は楽しみで朝から外に出てトラックを待っていたことを思い出します。今から思えば昭和47年に開催された札幌オリンピックが購入のきっかけだったのかもしれません。当時の番組の我が家の定番は「遠山の金さん捕り物帖」や「8時だよ全員集合」、事件報道では昭和47年に起きたあさま山荘事件の生中継が記憶に残っています。また、遊びといえば、覚えたての、またがっても両足のつかない大人用の自転車を漕ぎ、自作したラジオを鳴らしながら近所の畑道をドライブするのが好きでした。場所柄東京のラジオ放送がバンバン入るので、北海道にはない、かっこいい都会の匂いみたいなものを感じていました。そのほかに当時はマイカーブームということもあって、出来立ての大宮バイパスにはたくさんの車が走っていましたが、どこで覚えたとも勉強したとも記憶にないのですが、走ってくる車の車種を当てることが私の特技で、友達とよく歩道橋の上から走ってくる車の名前を当てあいをしていました。それがあってかいまだに車は好きで、バスや大型2輪の免許も持っています。結局大宮では、校区の再編とか、引っ越しとかが重なり3つの小学校に通うことになったのですが、目にするものが新鮮で、遊びに夢中(勉強は苦手)になっていたせいか、転校生にありがちないじめにも遭わず、気の合う友達もすぐ出来きたように思います。

 

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