活動の記録

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol11

お元気ですか

この間テレビをみていましたらこんなワードを言った方いました「未知は無知」。この言葉の前後の話はともかくとして、人間は来るべき未来(明日)がどうなるのかなど知る由もないし、知恵を使ってわかるすべもない。つまり「未知はそのまま受け入れるしかない」という意味でした。確かに何気なく今日と同じように明日が来ると思いがちですが、毎日ジョギングをしながら空の色や雲の形をながめてみれば、一日として同じ日はないのです。まして宇宙規模でみれば人間が理解していることなど、ごくごくささいなものにすぎません。巷では五輪の観客数が問題になっていますが、あくまで可能性を根拠にやったことのない未知の領域の議論をしているのであって、「確実にこうなる」とは言い難いところに難しさがあります。「もしだめだったらどうする」と考えるから責任の重さを感じ、責任を回避しようとするから議論が言葉遊びのように聞こえてしまうのかもしれません。「人間は明日がどうなるのか知る由もないのだ」という前提に立って一所懸命に万策を尽し、うまくいったら素直に「喜び」、だめなら「精一杯やったが届かなかった」と国民も政治家もIOCもすべての人間が素直に受け入れればそれで良いのではないでしょうかね。ただし国民、選手の命と安全安心を第一にするのであれば、他の「欲」は二の次という覚悟と合意があっての話ですが….

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol11(転勤)

1987年の日本は青函トンネルや瀬戸大橋の開通、東京ドームの開業など大きなインフラが出来上がり、株価はうなぎ上り、不動産や高級車が飛ぶように売れるあのバブル経済が進み始めていた頃でした。若者の間で流行っていたのが、ビギやニコルなどのDCブランドのモノトーンのファッションで、バーゲンともなると整理券が配られるほど押すな押すなの大盛況でした。後半には、ワンレンボディコンという身体のラインを強調したセクシーなファッションが女性の間でブームとなり、週末の夜ともなるとディスコの周りには流行のスタイルで闊歩する若者が溢れていました。当時は携帯電話が無い時代で、コミュニケーションはもっぱらポケベルで数字を暗号替わりにして待ち合わせるのが常套手段でした。一方サラリーマンは栄養ドリンクの「24時間働けますか」のフレーズが流行りバリバリ仕事をこなす男像がもてはやされ、どんどん働いてどんどん金を使うのがあたりまえといった風潮が益々景気を上向かせていきました。余裕のある独身OL達は、こぞって海外でブランド品を買い求め、リゾートで羽を伸ばし、本場の料理を堪能して帰ってくるゆえに、本物志向の風潮が広がり、専門店がもてはやされ、やり場を失ったファミレスのメニューは地中海風〇〇とか〇〇の四川風などと源氏名を付けて売られていました。

富に浮かれた世の中とは対照的に仕事漬けの毎日が続いていた私は25才、入社3年目に入り大阪ミナミの喫茶部門の店舗に副店長として行くことになります。喫茶部門はオーセンテックな造りの高級洋菓子喫茶の心斎橋本店と、ティーンエイジの女性を狙ったカジュアルなソフトクリームとパフェが売りの難波の分店の2店を構えていましたが、店長が退職したということで難波の分店の後継を任されたのでした。着任すると、一昔前に流行ったやたら明るくパステルカラーに彩られた店内、使い古してビニールレザーが擦り切れたソファ、昔大人気だった時代遅れのビックパフェ、「本格的な洋菓子の勉強も出来やしない」とやる気の失せたケーキ職人、ソフトクリームブームが去り平日は閑古鳥で累積の赤字が膨らむ「ぬけがら」のような店でした。この店がターゲットとしていたティーンエイジの女性たちは「良い」となったら一気に口コミで拡散し押しかけてくるものすごいバイイングパワーを持っていました。しかし移り気で、熱しやすく冷めやすい傾向が強いため、飽きさせないないように断続的に策を打ち続けなければならず、一旦客足が途切れてしまうと立て直しは容易ではないのです。このような状況の中で喫茶店経営をまったく知らない私と、ティーンエイジのお父さん年代の統括課長の2人が中心となって立て直しを考えていくことになったのです。

着任当初は統括課長の言われる通り、ビックパフェがあるならミニもあっていいじゃないかという発想でミニパフェを作り、食事が出来る店にしたら売り上げがあがるはずだと冷凍もののホットドックセットを置いたりしましたが、どれもうまくいきません。それどころか思いつくままに増やしたメニューは一貫性がなく次第に何屋かわからない店になっていき、上がらない売り上げ、増える仕込み作業、置き場のない新たな食材や食器に従業員の冷ややかな視線を感じるようになっていきました。社内に喫茶店経営について頼れる人がいないと直感的に感じた私は、専門誌を読みあさり、取引のある問屋さんに最新の情報を聴いたりしながら喫茶店の勉強を始めました。

ある業者さんが、イタリアから本場のジェラートを仕入れることにしたので使いませんかと言ってきました。巷でも専用の冷凍ケースにカラフルに並んだバルクのジェラートをお客さんのオーダー通り店員が対面でディッシャーですくいカップコーンに盛って提供する本場仕込みの店舗が流行り始めていました。「もしかしたら流行に乗れるかもしれない」と淡い期待を込めてこの話を受け、出来上がったのがテイクアウト商材で6種類の味が選べるイタリアンジェラートでした。「本場イタリア直送の本格的ジェラート」までは打ち出しとして良かったのですが、丸いビニールにあらかじめラミネートされた既成のジェラートをあらかじめソフトクリームを巻いて底上げしてあるカップに移し替えて、スプーンとウェハーを添えて出すだけのものだったためオペレーションは誰でも容易に出来て食べやすかったものの、シズル感やパフォーマンス性、本物感はほかのものとは比べものにならないチープなものでした。結果はほとんど売れずにあっけなく廃版になりプラスチック容器の在庫の山が空しく倉庫に横たわっていました。

「何をやっても良い結果が出ない」まさに「満身創痍」。もがけばもがくほど沼にハマっていくような苦悩の日々を過ごしていました。いま振り返るとそれもそのはずで、予算がないといってくたびれた内装はそのまま、大事だといって下降線をたどり底を打った基幹メニューもそのままに、思いついた新メニューを積み上げていけばいつか売り上げが上がるはずだと考えるのは店の勝手な理屈と都合であって、「お客様目線で店や商品がどう映るか」などということはほとんど考えていなかったのですから流行るはずがなかったのです。

その頃、文具メーカーから転職してこられていたk部長が営業部門の改革リーダーとして抜擢され、マーケティングや品質管理(QC)、販売士1級レベルのノウハウを駆使して中堅社員の教育に力を注いでおられる中に、私の年代も参加させてもらえるようになったのです。K部長はこれまで出会った上司にはない論理的思考の持ち主で、経営のノウハウを熟知していましたし、QCのノウハウは前職の実践経験から特に説得力がありました。勉強嫌いでこれまでロクに勉強してこなかった私は、物(サービス)を売るには理屈があって、それを知らないというのは恥ずかしいことだということに気付かされたのです。

この出会いがきっかけとなり、本気で「勉強しないといかん」と思ったのでした。とにかくK部長とのコミュニケーションを密にすることから始まり、これまで見向きもしなかったビジネス書コーナーのトフラーやドラッカーの本を買い求めて解らないなりに読んでみたり、これまで読んだためしがなかった日経新聞を駅の売店で買うようになったり、それだけではありません当時30万円もする経営ノウハウが詰まった教材を思い切って月賦で購入し、松下幸之助や盛田昭夫といった偉大な経営者の肉声が入ったテープを聴いたり、マーケティングノウハウを詰め込んだ先端のLDの教材までローンを組んで手に入れました。とにかく手あたり次第に情報を集めるために大枚をはたいた結果、もう後戻りはできないというギリギリのところまで自分で自分を追い込んでいったのです。

販売士2級の資格取得を目指して会社で行われていた勉強会に参加し始め、並行していろいろな勉強をするうちに、物(サービス)をつくって売るということがどういうことなのか、どのような手段で売るのかということをおぼろげながらでしたが掴んでいきました。LDの教材の中に名の通った有名企業がヒット商品を生んだサクセスストーリーの動画があり、何度も繰り返し観ているうちに「大企業へのあこがれ」も芽生えていた時期でもありました。そのような矢先、応募していた公団住宅が当たります。場所は枚方市という京都に近い街で通勤はバスと電車を2本乗り継ぐため通勤時間は倍になり、築30年ほど経っている古い団地でしたが、ようやく一人暮らしのアジトを確保してこの年の秋に16回目の引っ越しをすることになったのです。そしてその後人生の潮目が変わり始めます。

 

教訓

  • 経験こそ気づきの宝庫です。
  • 何をやってもうまくいかないときは根本に原因があります。
  • 売れたと売ったは違います。仕掛けは必要です。仕掛けるためには勉強も必要です。

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