活動の記録

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol10

お元気ですか

コロナによる非常事態延長でさらに不要不急の外出禁止が続いていますがみなさんお元気でしたか。なかなか思い通りにならない日々が続きますが、ワクチン接種も進んできましたので、近い収束を願いつつ、もう一息の辛抱ですね。ヒマに任せて本を読むことが多くなったのですが、最近突然の病に倒れあの世の手前に行って戻ってきた人が書いた本を読みました。人は生まれた時から「死」という終わりが来ることを運命づけられています。しかし、終わりの先はどうなるのかとかあの世はあるのかという疑問や、現世を生きる意味についてもかねてから興味がありました。本によると、死ぬ間際に「充分に学んできたか」「充分に愛せたか」「充分に使命を果たせたか」の3つの質問を天の声から問いかけられるというのです。ということは、人はあらかじめ目的をもって現世に生まれてくるという訳です。よちよち歩きの赤ん坊も、その目的に向かって一所懸命進みだしているということなんですね。だから命は、他人様でも自身でも、生き物すべては、とても尊く大事なものなのです。しかし無情にも地球は人間の都合で回っておらず、100年前の1920年にスペイン風邪が猛威を振るい日本国内で45万人が犠牲になっておりますし、東北の津波も同じように東日本大震災から115年前の1896年に明治三陸地震が起こり2万人が犠牲になっています。もしかしたら地球は人間にとって試練となることを周期的に起こすようにプログラムされているのではないかとさえ思えます。これらの試練を乗り越えてその先にあるそれぞれの目的に向かって進もうとするところに「学び」があり「愛」があり果たすべき「使命」があるのだということを感じます。この先富士山噴火、南海トラフ地震、気候変動による食糧危機などいろいろなことを予測する向きもありますが、どんな困難があっても命ある限り思い描いた目的に向かってひたすらに進んでいこうとすれば、叶わないことがあるとしてもそれで良いと私は思います。人生の目的が何かわからない….そんな時もありますよね。でも大丈夫ですどんなことでもよいので「好きだ」「ワクワクする」と思えることを探してとりあえずやってみましょう。きっとそれが貴方の生まれる前から目指していることなのです。

引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol10(大阪の洋菓子メーカーに就職)

ロサンゼルスオリンピックが開催された1984年の春、4年間の想い出が詰まった仙台を後にして、私が就職した先は、戦後敏腕の洋菓子職人だった創業者が、まだ甘いものが十分ではなかった時代にシュークリームの皮が水分でふやけない様に店先でクリームを入れる実演販売で繁盛し、後に小ぶりなシュークリームを箱に詰めたものやクリームの代わりにアイスクリームを入れた夏場の商品を開発。大阪みやげの定番と言われ主要な駅やデパートの直営店舗で順調に売り上げていた中堅の人気洋菓子メーカーで創業者の傘下に三つ兄弟会社がありそれぞれ子息が社長を務めるうちの一つでした。社会人初となる15回目の引っ越しは東大阪の花園ラグビー場の近くにあるこの会社の社員寮でした。建物は鉄筋コンクリート4階建ての立派なものでしたが、2人1部屋の振り分けがされて8畳間に2人の生活が始まったのです。相方は大阪の大学を卒業した同期のT氏でした。寮には同期にもう2人大卒がいて4人のほかはすべて地方から来た高卒の社員50人ぐらいが暮らしていました。

いよいよ接客応対のロールプレイや商品知識を中心にプログラムが組まれた新人研修が始まりました。大学時代にアルバイトに明け暮れ、仕事に対する「自分流」をある程度身に着けていた私は、ビジョンや戦略など会社方針にある程度触れられるかと思ったのですが、十把一絡げに並ばせて、たこ焼きの型にネタを流し込むような通り一遍の研修のやり方に違和感を感じていました。それもそのはずで、地方から大阪に来たばかりの高校生を相手に最低限必要なスキルを習得させ、早く現場に送り込むのが主な目的だったようです。中には地元大阪出身の研修生もいましたが、研修所にいきなりシャコタンの車で乗り付けるパンチパーマ頭のヤンキーだったりしました。とにかくこの集団と一緒にこの先やっていけるかなあ?というのが第一印象でした。

研修も終わりいよいよ配属の店舗が決まり店舗実習がはじまりました。私は会社の中でも有数の売り上げをあげていた大阪の基幹店に配属になりました。仕事を覚えるまで一から先輩の教えを乞うのですが、何せショーケース7本ほどの細長くすれ違うのもままならない狭いスペースの中で、土曜日ともなると絶え間なくお客様の列ができるため、皆仕事に追われて教育指導どころではありません。やむを得ず先輩の横で見様見真似に仕事を覚えていきました。しかし、その中にとても恐れられているベテランの女性リーダーがいて、機嫌が悪いと2オクターブくらい上の金切り声で怒鳴りちらす声が店中に響き渡りました。説教が始まると皆黙ってうつむき、中堅の従業員は当たり障りのない誉め言葉でご機嫌取りをする始末です。I店長は和歌山出身のとても温厚な方でしたので私にとっては救いでしたが、この事態を改善できるでもなく店の従業員のヒエラルキーの頂点は事実上この女性リーダーでした。息の詰まりそうな恐怖政治と閉塞感漂う重苦しい職場環境でしたが、経営コンサルの先生の紹介で入社できているという恩義があったこともあり、粗相はできないとの思いで午前シフトでも残業はいとわず、午後のシフトでも早く出社し、とにかく早く仕事を吸収して一人前になろうと踏ん張りました。

途中近鉄電車の鶴橋駅のホームに漂う旨そうな焼肉の煙を嗅ぎながら空腹をこらえて帰宅、あとはがらんとした寮の食堂でわびしく飯を喰って寝るだけの生活が半年、一年と続き、ようやく仕事も慣れて来たころ、有志を4人集めて月に一回洋菓子店視察を行うようになりました。芦屋や神戸の有名店や高級店と言われるところに行き実際に洋菓子を試食して論評してまわり、最後は当時流行っていたビリヤード場で遊んだりして仲間との交流を図りました。当時のメンバーは営業職、製造職、企画室など多岐に渡る職場のメンバーが集まっていたのでそれぞれの職場の話がいろいろ聞けるし、将来の会社の在り方や組織についても語り合っていたのでとても有意義に感じていました。ケーキ屋視察の内容を何とか若手社員に広く伝えようと瓦版を発行してみたり、バレンタインやクリスマスなどのイベントを少しでも盛り上げようと休みの日に一人で本社のデザイン室の一角に籠って電飾の入ったかなり大掛かりな手製のPOPを制作したり、12月25日の夜は駅のコンコースでクリスマスケーキ割引をネタに大声で客寄せしたり、お客様や若手の従業員に向けた発信も意欲的に行うようになっていました。これができたのも接客にある程度自信があって気持ちに余裕があったからで、何も経験がなければ恐怖政治に呑まれ、言われたことを機械的にこなす売り子になっていたかもしれません。

このころの中小企業は多かれ少なかれカタチは会社組織なのですが中身は創業者一族と使用人といった構図の企業が多くありましたが私がお世話になったところもまさにそうでした。社長のまわりの管理職は取引銀行からの出向の経理部長、人事部長、プロパーの営業部長、課長はすべてたたき上げで社長のイエスマンだらけでした。ところが売り上げの昨対は100%を少し切っていたもののメイン商品は大阪名物と言わせるぐらい根強い人気があり、経営に対する危機感はさほどないように思えました。と言うのも、ある日、休憩時間に駅近くの飲食街を歩いていたとき、F課長が真昼間にパチンコ屋に入っていくのを目撃してしまいます。その後閉店近くなって店舗にF課長がやって来て、やおら三角帽子をかぶって「接客はこうするのだ」といわんばかりに「いらっしゃいませ」と声を張り上げて、まばらになったお客さん相手に接客を始め、15分ほどで「ご苦労さん」と言って帰っていきました。この一件で「この会社は経営職になると就業時間中でも遊ぶ余裕があるんだ」と思ったものです。その後もF課長は時々閉店間際の店に顔を出すようになりました。しかし、事はそれだけではありませんでした。このころからレジと現金が決まって一万円合わない事態が頻発しはじめたのです。そのたびに店長から釣銭間違いをしないようきつく言われるようになり、従業員の中に盗んだ者がいるのではないかと嫌疑をかけられ時間別レジチェック帖とシフト表を突き合わせて個別に調べられるという事態にまでなりました。実は、F課長がレジ前に立つと現金が合わないことは、確証はつかめませんでしたが私を含め数人の社員が感づいていました。ある年末のことでした。ボーナスを手渡しするから心斎橋まで取りに来るように言われて行くと、事務所の扉の向こうに座っていたのはそのF課長でした。「お前たちの働きが悪いから業績が悪化している。本来ならボーナスなしで働いてもらうところだが社長のお慈悲で何とか捻出したから今回はありがたく受け取りなさい」ボーナスを受け取る間際にそう言われたのです。これまでF課長個人が変なのかそれとも社長をはじめとする会社組織がおかしいのか判らなかったのですが、この言葉を聞いて「会社がおかしくなっている」と思い始めます。創業家と使用人という確執、社長に何も言えない社内ブレーン、あやしい中間管理職、鬼軍曹張りのリーダー、ルーチン業務ありきの従業員、狭い相部屋、こんな職場と住まいに、時を追うごとにストレスが募っていったのです。入社2年目を過ぎるとさすがに私が24才寮部屋の相方は25才になっていましたので2人部屋は手狭で、外で部屋を借りて住もうと考えるようになっていました。当時は給料も少なくぎりぎりの生活が続いておりましたので、高い家賃のところに住むのは無理で、公団住宅の抽選を何度となく受けるのですが人気が高くなかなか当たることはなく悶々とした日々を過ごします。

教訓

  • 時に全力で踏ん張ることがあっていいじゃないですか。長く続かないのは承知の上なのですから。
  • はじめての環境で最初にすることは、話し相手を見つけることです。
  • 上司を選ぶことはできません。「おかしい」と感じたら出来るだけ遠ざかるべきです。そして信頼できる人に相談することです。

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