みなさんお元気ですか?
少しカスミかかったの穏やかな日々が春の訪れを感じさせる季節になってきました。花粉症の方はいやな季節かもしれませんが、これから始まるヒノキの花粉の時期をすぎるまでもう一息ですね。3月といえば、桜、就職、入学、卒業と行事の多い時期なので、外出することも多くなりますし人との接点も増えてきますので、流行病対策をぬかりなくしていきましょう。この1年の月日は、コロナ前の生活を忘れてしまうほど暮らしが一変し厳しかったですが、ワクチンも出回り始めてきましたし病収束までもう少しガマンすれば、コロナ前の生活に戻れるような気がします。
引っ越し歴27回のおじさんの回顧録vol6(仙台~大学生 新聞奨学生編~)
高校3年も半分が過ぎ、大学の入学試験を受験するために仙台に行くことになります。田舎の高校なので仙台に行く者など誰もいません。当然私一人の行程になりました。当時はまだ東北新幹線が開通しておらず、姫路から東京までは新幹線で、東京から仙台までは特急でいく長旅でした。特急に乗っているとき子供のころに嗅いだあの食堂車の洋食の匂いがしてきました。食事をしたかどうかは覚えていないのですが、とても懐かしい特別な匂いでした。夕方に仙台についてホテルに1泊し、翌日大学の試験を受けて、帰り道中のバス停で東北弁が飛び交っているのが聞こえてきましたが、何を言っているのかよくわからなかった(笑)。家に帰るまでの道中で、もともと就職希望だったこともあり、新聞奨学生制度を利用して、学費が稼いで通学してみようかと思い立ちます。家に帰り、親に相談して新聞社の奨学生として大学に行くことを決めました。それから、バイクの免許が必要だということで、どうせなら原付より中型2輪の免許が欲しくて、教習所に通うことになったのですが、予約の日を巡って教習所とトラブルになり途中で止めてしまいます。でも乗りかかった船。なんとか免許を手にするために、友人に試験コースの情報を聞き出して何度もイメトレを繰り返し、明石の運転試験場に試験を受けに行きました。がちがちの緊張感の中で繰り返し覚えたルートを淡々とこなしたのですが、踏切の手前でエンストを起こしてしまいます。これで終わったと思ったのですが、なんとか完走し奇跡的に一発合格。教習所で主だった運転技術は身に着けていたものの、この日の合格者は私一人でした。ほんとうに神様がついてくれていると感謝しました。
昭和55年18才。いよいよ新聞店の住み込みで学生生活が始まります。当時の歌では松山千春の「恋」とかボロの「大阪で生まれた女」、佐野元春「アンジェリーナ」などが流行っていて、テレビではズームイン朝が朝食時の定番で、夜は石原プロの「西部警察」を毎週見ていましたが、ドラマのストーリーというより、出てくる日産の車と俳優陣のカッコよさに目が釘付けでした。新聞配達の区域も、新興住宅地が多く山を切り開いて新築の戸建て住宅がどんどん増えていっていました。日本が1970年代の高度成長期から一億総中流社会を目指し、少しづつゆとりを持った生活を実感し始めた頃でした。
学校は仙台市内でしたが、新聞店は隣町の泉市という所でしたので、父から入学祝いで買ってもらったヤマハの250ccのバイクで通学することになりました。1DKのアパートで北海道から来た違う大学に通う同い年の同居人と6畳間に2段ベッドで仕切る住まいが11回目の引っ越しとなりました。新聞専売所の所長さんはとても良い方で親切にしてくれました。最初の日には、すし屋に連れて行ってくれて、好きなものを頼めばいいよと言ってくれたのですが、まだ高校上がりの若造だった私は、遠慮もなく好きなものをバクバク食べてしまったのです。あの時のカジキはとてもおいしかったのを覚えています。でもお勘定は所長さん大散財だったのではないかと今でも思い出すと申し訳なく思います。
新聞店の仕事は朝4時から始まり、アルバイトの配達部数をそれぞれ準備して自分の持ち場120件ほどの配達が終わって朝ごはんを食べてから通学です。当時の仙台の春はスパイクタイヤ(鉄のピンを打ってあるスノータイヤ)がアスファルトを削り、大きなわだちと大量の粉塵でカスミがかかり、けむたく汚れた街並みをバイクで45分、学校に着くころには身体も心もくたくたになっていました。授業中はよだれをたらして爆睡、楽しみは男友達との学食の昼ごはんで色気もそっけもないキャンパスライフでした。学校から午後4時に戻り、明日の織り込みちらしの準備が終わってから、粗品の洗剤をバイクに積んで勧誘、月末には集金があり、夕食をとって10時には就寝。また朝が来るといった日々が、雨が降ろうが雪が降ろうが休刊日以外休み無しで延々続きます。新聞配達は朝が早いということ以外はルーティン作業なので慣れればできるのですが、なかなかできなかったのが勧誘と集金でした。勧誘は軒並みドアを叩いて「新聞いかがですか」などと18の青二才が伺うわけですから、まともに相手にされません。それが悔しくて、所長さんからコツを教えてもらい、春、秋の転勤の季節の土日に団地に張り込んで、引っ越しのお宅に直撃、その日の新聞をサービスで持っていって明日から如何ですかと勧めると、契約の確率がグンとアップして営業の手ごたえを感じたうれしい瞬間がありました。集金のほうはずっと苦しみました。ほとんどのお宅は集金できるのですが、中に居留守を使ってなかなか会えずどんどん未払いが増えていくお宅や、新聞代が高いだの給料日前で金がないなどと毎回嫌味をいわれたり渋られたりするお宅など、代金回収の厳しさをおもい知りました。
一番最初に入ったアパートは専売所の都合で一か月ほどで別の借家に引っ越すことになり、こんどは同じ大学の先輩を含め3人で共同生活することになります。とは言っても部屋に戻れば何する間もなく風呂に入って寝るだけでした。人生12回目の引っ越し先も数か月で、今度は所長さん家族の一戸建ての一室を借りて住むことになり都合13回目の引っ越しをすることになります。
1年間で3回の引っ越し、慣れない場所と激務のハザマでもともと苦手な学業が追い付かなくなっていきました。ある時、学校から専売所に戻ってストーブで暖をとっていると、ウトウトと眠ってしまい、痛いと思って眼を覚ますと円筒形のストーブの上のやかんをかけるところに右手をついて寝込んでいたのです。手のひらのふくらんだところ一体の火傷でした。気づかないうちに心身ともに限界がきていたのかもしれません。そんな中、配達のバイクで右直事故を起こします。交差点を直進で侵入したら対向車線の右折車にはねられたという典型的な右直事故でした。私ははずみで十数メートル飛ばされ、ヘルメットごしにアスファルトにたたきつけられて、救急車で病院へ。しかし神様のご加護か、奇跡的に打撲と軽い擦過傷だけで済んだのです。次の日から実は全身打撲で身動きが出来ないほど痛かったのですが。配達のバイクはクシャクシャ、数日の配達に穴を空けてしまい、周りに大きな迷惑をかけてしまうことになりました。このほかにも嵐の日にバイクに乗せていた新聞が括っていたゴムバンドが外れて200部の新聞を濡れた道路にぶちまけてしまいパーにしてしまうなど、所長さんに迷惑をかけることが多くなっていきました。そんな冬の凍てつく早朝に専売所までバイクを走らせていると、外灯も何もない暗闇の田舎道の真ん中に何やら動くものがあったのです。スピードを落として良く見ると寝間着姿のおじいさんがうずくまっているではないですか。びっくりするやら怖いやらでしたが「大丈夫ですか」と声を掛けたら「うんうん」とうなずくので生きていると思いました。でも何でこんな朝方にこんなところに居るのかと思いつつ「どこから来た?」と尋ねると視線の合わない宙を見上げるばかりでわからない様子。ちらしの折り込みを準備する時間も迫っていたので、誰か助けを呼ぼうと思っていると道路を少し入った所に大きな構えの農家らしき家が目に入ります。おじいさんを道の脇に止めたバイクの横に座らせて、家のチャイムを鳴らすと明かりがついて、男の人が出てきてくれました。事情を話すと、なんとその家のおじいさんだということが判ったのです。おじいさんは認知症で深夜俳諧の常習があったようでした。このとき飛び込んだ家が偶然にもおじいさんの家だとは、あとから考えてもとても不思議な出来事でした。
さまざまな出来事に翻弄されながら仕事と学業の不振が重くのしかかり精神的にもかなりきつい状態になっていきました。とうとう大学1年の終わりには必須単位をかなり落として、このままでは留年という瀬戸際にたたされたのです。両親と所長さんには大変申し訳なかったのですが、新聞奨学生を断念することにしました。
時に、成り行きで進んだ道に迷い、頭をぶつけてはいつくばって、一体何のために生きているのかわからなくなったことは無いですか?勇気ある撤退とは程遠く、あの時の認知症のおじいさんのように、事故で頭をいやというほど打ち付けた時のように、自分を見失い、どこにいるのかもわからない自分がそこにいました。みじめな負け犬の遠吠えを、知らない街で、か細く吠えていたのです。「いつも中途半端な浮き草ぐらしだった」と自分を本気で責めたのはこの時が初めてでした。しかしこのずしりと重い1年間の経験が、私のこの先の人生に大きな自信を与えてくれることになります。大学2年からは、14回目の引っ越しは大学の近くの学生長屋に引っ越します。