みなさんお元気ですか?
新型コロナもワクチンが出回わり始めたことで収束に向かうと思いきや、変異型の勢いが止まらない事態になりました。今非常事態宣言下で原稿を書いております。今回3度目の非常事態宣言ですので何か合理的な方法が編み出されたかというと、1回目同様に不要不急の外出自粛、マスク、手洗い、換気、蜜を避けるの5つの励行は変わりありません。要するに「おとなしく家に居ろ」という非常にシンプルな回避策な訳です。1回目にくらべて経済的ダメージも大きいはずなのですが、昨年あった給付金など国民への経済支援が無いところなどは国に対して矛盾を感じるところです。
ところでこのように外的バイアスが加わるといろいろなことを考えたり思ったりしませんか?私は、外出をしなくなったことで、買い物や飲食に費やしていた時間とお金がドンと減りました。そして自由に動き回れないフラストレーションはあるものの案外「普通に暮らせている」ことに気づきました。ということは、今までは何だったのだろうか?ということになる訳ですが、相当「無駄の中」に身を置いて暮らしていたということが言えるかもしれません。余った時間を自分の望んでいるモノ、コトについて見つめなおす機会にしたいと思い、いろいろなコーヒーを試したり、音楽のコレクションを整理したり、方位学の本を買って読んだり、花壇を作って花を植えたりと今好きなことに費やしていますし、家にあるムダと思われるものを整理しました。一番大きかったのは車です。必要なときはレンタカーにしようと割り切りました。こうして足元にあるものから変えていったところ、これまで本当は自分は何がしたいのか?どうありたいのか?と自問自答するとなかなか答えが出なかったのですが、だんだんとやりたいことが見えてくるような気がしています。流行病はつらく厳しいというイメージですが、逆に「これからに向けての準備期間」と前向きにとらえるもよいのではないでしょうか。
引越し歴27回のおじさんの回顧録vol8(大学3年生 仙台編)
昭和57年(1982年)東北新幹線が大宮~盛岡まで開通し、東北の玄関口と呼ばれた仙台はさらに大きな都市へ変わり始めていました。全国的な事件事故では、東京のホテルニュージャパンの火災があった年です。そのころ私は、住んでいた下宿が、大家の本業が傾いたことで人手に渡り取り壊すこととなり、近くのアパートに14回目の引っ越しをすることになりました。お金のない学生でしたが、ありがたいことにアルバイト先のガソリンスタンドの社員さんが会社のトラックを借りて引っ越しを手伝ってくれたお蔭で引っ越し代を節約することが出来ました。
しかしこの年は不運続きで、荷物を新居に運び込んで一段落して食事の留守中に泥棒に入られて一眼レフカメラを盗まれたり、パチンコ屋でお金を盗まれたり、バイクのエンジンが交差点のど真ん中で突然ストールして大掛かりにエンジンを修理することになったり、スピード違反で捕まったり、バイク店の若社長と会津磐梯山へツーリングに行ったときに、ターンパイクの左コーナーでバイクで転倒して対向車線にスライディングして気づくと観光タクシーの前輪タイヤが目の前にあって、ぎりぎりのところで命拾いをしたこともありました。挙句に相変わらず身が入らなかった学業では、とうとう留年という現実を突き付けられてしまったのです。大学3年生という時期は、遊び頃でもある反面、進級か留年の大きな分岐点でもありまして、先輩の中には22才の大学2年生がいたり、同期の中にも留年決定組が何人かいました。珍しいことではないと自分を慰めつつも、遊びに夢中、アルバイトに夢中だった私は必然的に留年の道に入ってしまいました。
そうこうしているうちに、父が転勤で福島の郡山で単身赴任することになり、追い打ちをかけるように母が、父の赴任先に出向いたときに過労で倒れて入院する事態になってしまいました。私には一つ上に地元の短大に通っていた姉がいますが、このとき母と姉以外がバラバラに生活するという、これまでにない状況が生まれ母に相当な負担がかかっていたことに気づかされたのです。「このままではいけない」なにがなんでも4年で卒業しなければと思うようになります。頻繁に顔を出すなまけ癖と度重なる負の連鎖に押しつぶされそうになりながらも、特進する必要最低限の取得単位数をはじき出し、カリキュラムに照らして足りない単位の授業を受けました。中には1年生と混じって受ける授業もあったり、友人に課題を手伝ってもらったり、試験の山を張ったノートのコピーを譲ってもらったり、大の苦手とした外国語の教授に何とか単位がほしいと直談判して、高価でしたが教授の著書を購入したこともありました。恥はかき捨てで、なりふりをかまっている余裕はありません。とにかく目指すは4年で卒業することです。短期集中必死になってもがいた結果、4年生なっても引き続き取らなければならない単位を残したものの、奇跡的に特進の目途が立ったのです。まさに「意志あるところに道が開ける」瞬間でした。今振り返ってみれば、アルバイト先の人脈は生活と精神的な面で支えになってくれていましたし、大学の先輩や同期生は、遊びや学業の友でした。家族は離れ離れで、今のように携帯電話やメールがない頃で、身内ゆえに意思疎通もあまりなかったのですが真に心の支えになってくれていたのです。出たとこ勝負の浅知恵の私には気づきようもありませんでしたが、ドロップアウトせずに乗り切れたのは、いろいろな人との関わりの中で助けてもらっていたからなのです。感謝。感謝。
遊びに夢中アルバイトに夢中
当時の流行の一つにバイクがあり、バイクを持っていること、乗っていることがステイタス=「かっこいい」の方程式が成り立っていた時代でした。私も御多分に漏れず250CCのバイクに乗っていました。映画では「マッドマックス」や「汚れた英雄」が大ヒットし、仙台郊外に菅生サーキットがあって、オートバイレース観戦に行ったこともありましたがワークスチーム全盛で多くの人でにぎわっていました。日帰りで行けるところを探しては友人とよくツーリングをして遊びましたし、日ごろの足として毎日欠かせないものになっていて、学校、アルバイト先、友人宅、繁華街へのアクセスは常にバイクでした。
仲の良かった同級生同士では、毎月一度半額になる牛丼屋とか当時流行のフライドチキンの店が国分町にあって、晩ごはんを賭けた麻雀を友人のアパートに集まってよくやりました。負けた2人がバイクに乗って往復60分の道のりを買い出しに行くのですが、その道中に自殺名所の橋があって夜にここを通るのが怖いのなんの…博才がなくあがり役も数えられない私は。都度にここを通ってお使いに行くはめになっておりました。
冬の遊びといえばスキーですが、ガソリンスタンドのⅯさんにシーズンになると、よく山形蔵王に連れて行ってもらいました。スキーは子供のころに北海道で暮らしていたこともあり慣れていましたし、このころにはⅯさんとの交流は社員とアルバイトという垣根を超えた深いものになっておりましたので、Ⅿさんの友人との交流もでき、趣味にされていたハンディカムのスキー撮影(当時としては最先端で高価な機材が必要でした)はなかなか新鮮で興味をひかれたことが、今の仕事を選んだきっかけの一つかもしれません。山形蔵王はとても広いゲレンデで、まずロープウェイの山頂駅でラーメンを食べるのがお決まりで、食べながら降りるルートを検討して、樹氷原を滑ったり国体コースを滑ったり、横倉の壁ではほとんど転がっていく感じでしたが、ふもとまでの行程は休みなく滑っても有に1時間は掛かり、着いたころには足がガクガクでした。疲れた身体で宿に着くと仲間で囲むおいしい夕食と温かい温泉が待っていて本当に最高でした。
このころの遊びのトピックとしてフィーバーというデジタル数字の7が3つ揃うと爆発的な出玉になるパチンコ台のブームがありました。大学の先輩の間で沢山勝って当時流行っていたオーディオを買ったという話が話題となり、先輩の中には学校に行かず毎日パチンコ屋に通って生計を立てていた24才の強者もいました。先輩と一緒にパチンコにも行きましたが、確かに7が揃うとびっくりするほど玉が出るのですが、トータルでは負けていたと思います。皆さんそうだと思いますが人に話すときは勝った話しかしないものですね。ギャンブルはほどほどに。
アルバイト先では、仕事もすっかり覚え、レギュラーメンバーのポジションにいながらバイトを仕切っていました。試験シーズン、帰省シーズンのアルバイトの穴埋めや、止めたバイトの後継を探すのを任されていました。そのほか、タイヤ交換時期の繁忙時には臨時雇いのバイトも招集したりしておりました。この職場では、接客や洗車、オイル交換、タイヤ交換、ガソリンタンクの水抜き剤やワイパーブレードの販売、洗車会員の勧誘などフロントのサービスを一通りこなせるようになっておりました。ある時ガソリンタンクの水抜き剤をたくさん売るように所長から言われたので、交渉して1本につき30円の販売奨励金を出してもらい、アルバイトごとに売った本数をグラフにつけて競争することにしました。するとこれまでおとなしかったアルバイトが積極的にお客様に声を掛けるようになって結果、良く売れて目標数をクリアしたことがありました。タイヤやワイパーブレード、オイルも同じような仕組みにして販売することでガソリン以外の売り上げ向上に少なからず貢献したという経験がありました。このように社会に出る前に仕事の一端を経験させて頂いたおかげで組織とは何か、どうやってモノを売るのか、人間関係とは何かといった社会通念的な物事の理解が自然できていきました。この頃、自分で商売をしてみたいと思い、投資のかからない車の手洗い洗車サービス(当時はガソリンスタンドの洗車機が主流で手洗い洗車のサービスはほとんどなかった)を思いついて、創業するのにどのような方法があるのかを調べたことがあったのですが、同級生に「やめとけ」と説得されて妄想に終わったということがありました。このときすでに起業したいという欲求が芽生えていたのかもしれません。
ショッキングな恐怖体験
初夏の少し汗ばむ陽気の土曜日の昼下がりでした。いつものように、アルバイト先のガソリンスタンドで給油作業をしていたときでした。常連のお得意様のお嬢さんが給油を済ませ車道に出たところ、丘の頂上からの下り坂を、ものすごいスピードで中型のオートバイが走り抜けていく音が聞こえ、ガソリンスタンドの前にさしかかるのが見えました。「ドン」という音とともに私の目の前でオートバイのライダーが衝突した車の上を宙を舞って頭からアスファルトにたたきつけられるのを目撃してしまったのです。一瞬の出来事でしたが、その光景ははまるでスローモーションのように私の眼に焼き付きました。ライダーのヘルメットは宙を舞っている間に脱げ、生身で衝撃を受けとめたライダーの若い青年は耳から鮮血を流しピクリとも動きませんでした。私の心臓は恐怖で高鳴り、息苦しく、足がガクガク震えて身動きが出来なくなっていましたが、気を取り直して事務所に飛び込み、電話を手に取って救急車を呼ぶつもりが110番に電話していました。ぶつかった車に乗っていたお客様は我を失い、ブレーキを踏むはずがアクセルを踏んでしまい街路樹にぶつかった車の前輪はアクセル全開で煙を吐きながら空回りを続けていました。
事故処理が行われ、警察が引き上げしばらくしてライダーの両親がガソリンスタンドに訪ねてこられ、電話で搬送先の病院を消防に確認して病院に向かわれましたが、その顔に血色はなくその後ろ姿は鉛の塊のように見えました。後で聞いた話では、ライダーは中学生で友達から借りたバイクで無免許で事故を起こして病院に搬送され、一命は取り止めたのですが、重度の不随で植物状態になってしまったそうです。一方の車を運転していた常連のお客様のお嬢さんは事故をしたばかりで、当分車の運転は控えるように親から言われていたのに、次の日のデートのために車をこっそり持ち出して給油に来ていたことがことが判りました。
交通事故といえば、私も大学一年のときに新聞配達のバイクで車にぶつかり十数メートル飛ばされてアスファルトにたたきつけられた経験がありましたが、なぜかその様子も無音のスローモーションで記憶として焼き付いているのです。例えば割り切れない小数点以下の数字のような時空のゆがみに吞み込まれていくと言うか、この世の景色なのだけど、違うどこかに迷い込んでしまったようなと言うか、まか不思議な感覚を覚えたのです。ほんの少しタイミングがずれていれば事故にならなかったし何事もなく通り過ぎていたはず。強大なエネルギー同士が寸分狂わずぶつかり合い砕け散るタイミングに引き寄せられるように、その時、その場所に出くわしてしまうというのは、はたして人間のミスだけで生み出されるものなのでしょうか?割り切れない刹那は「運命」という言葉でくくるしかないのでしょうが、人間には図り知ることの出来ない何か大きな力が働いているような気がしてなりません。
教訓
- 何事もなく平和が続いているときほど、問題点が見えてないことのほうが多い。手遅れにならないうちに課題を探そう。
- 今こうして生きていられるのは、周りの人の支えがあるからなのです。
- 何事も経験する中で知恵が生まれる。