活動の記録

引越し歴27回のおじさんの回顧録vol5

みなさんお元気ですか?

少しづつ気温も上がって春らしくなってきました。みなさんお元気ですか?関東では非常事態が延長になりましたが、流行病も収束傾向になり、先に明かりが見えてきた感で少し安堵しています。現況身体は至って元気なのですが、巣籠生活がすっかり板についてしまって、生活できれば良いというレベルの暮らしを続けていると、今必要のないものは買わないとか、行く必要のないところには行かないとか妙に打算的に物事を計る思考になってしまいました。欲が薄れると、どんどん消費に対し淡白になっていき、それが経済活動の鈍化の原因の一つなのかもしれません。しかし、この状況は悪いことばかりではなく、車にアクセルとブレーキとハンドルがあるように、地球にもあるなら、今は温室効果ガスにブレーキをかけているのかもしれませんし、ひとりひとりが、本当にほしいものや本当にしたいことは何かを振り返り、これまでの価値観を見直す良い機会にもなっていると私は思っています。流行病が明けた先には、これまでとは違った価値観が生まれ、新たな景色が広がっていることでしょう。

引越し歴27回のおじさんの回顧録vol5(姫路編 ~高校生活~)

中学3年の2学期に当時は神崎郡でしたが姫路の北に位置する街の新興住宅地に両親が家を購入することになり、10回目の引っ越しをすることになります。私は受験を控えた中学3年生でしたので、地元の中学に転校せず、残りの中学校通いは播但線という姫路と和田山を結ぶローカル線で通うことになりました。当時は、赤白のディーゼル機関車が古めかしい紺色の客車を引っ張る単線で、上下線が離合する駅では結構待ち時間が長く、発車するときに警笛を鳴らして、しばらくしてからガッタンゴットンと動き出す、なんとものどかなものでした。客車の中は向かい合わせに座る直角の背もたれの4人掛けが並び、床も壁も木造、照明は白色の丸形のガラスカバーに覆われた白熱灯の優しい橙色がぼんやりと室内を照らし、天井から吊るされた針金を曲げて作った羽カバーのついた扇風機が優しい風を送り、真鍮の留め金のついた木枠のガラス窓越しに田んぼが続く風景を映した、アンティークな雰囲気がムンムンする空間が好きで、長い通学時間も旅気分で良い気分転換になっていました。新築の家は、生まれて初めて自分の部屋という空間を与えてもらい、これまでの手狭で姉弟で机を並べていた団地暮らしとは違いとても快適でした。

ところが学業のほうは転校の挫折から立ち直れずさっぱりで、高校受験だというのに相変わらずの低空飛行。焦りと苛立ちの中で入学試験を迎えたのですが、奇跡的に隣町にある県立高校に合格して、大喜びで飛び上がった拍子に思い切り居間の鴨居に頭をぶつけて星が出たの思い出します。ときは1977年ごろ、巷ではアイドル歌手ピンクレディが大ブレイク、なめ猫、ツッパリ、暴走族、タケノコ族がカッコいいとされた時代でしたが、私は、BCLラジオとかぐや姫、イルカ、井上陽水、吉田拓郎などのフォークソングやビートルズ、KISS、ディープパープルにかぶれて、入学祝いにフォークギターを親に買ってもらい、弾けないギターに戸惑いながらもボロンと弦をはじいてカッコよさを感じていました。高校では、持ち前の好奇心から剣道部、美術部に所属して、仲間を集めて文化祭でバンド出演しようと企てたりしました。

 

剣道は中学からやっていたものの、さっぱり腕が上がらず、試合になるといつも一回戦敗退ボーイでした。ところがメンバーが少なかったので試合の時はいつもレギュラーだったのが救われたのか、挫折することなく3年間やり続けたお蔭で健康な身体づくりをすることが出来ました。美術部では油絵にのめりこんでいました。勉強のかわりに絵を描くのは時間を忘れて一日中描いているときがありました。あるとき描いた絵が顧問の先生の眼に止まり、神戸の展示会に出品していただくということになったのですが、神戸に行く道中で「おまえは彫刻家になったらどうだ」と言われたことがありました。その時は彫刻家なんてさっぱりイメージがつかなかったので、うやむやな返事で終わりましたが、その後の進路に影響するとは思ってもいませんでした。バンドを結成してこの時の流行っていた甲斐バンド、世良公則&ツイストの曲を練習して文化祭に出場することになったのですが、剣道をやっていたので声がでかいということで、ボーカルをやるはめに。本番前は緊張で胃がねじれるほどの腹痛と緊張で舞台に立って第一声を放った瞬間に大きく音程をはずし、体育館は爆笑の渦に。バンドのメンバーには申し訳なく思いましたがその後どのようになったかは覚えていません。とても恥ずかしかった。

私は、勉強の次に苦手なものに水泳があります。幼少期の北海道のプールは1週間もすると閉じてしまうので、泳ぎを知らないままきてしまい、息継ぎをすると体が沈むので息継ぎなしで25mを必死で泳ぎきることで何とか体育の授業を凌いでいました。いまでも25mは泳ぐことは出来るのですがその先は未知の世界です。他人様には面倒な説明はしないで「かなづち」と言っています。その次に手癖です。生まれつき左利きだったので幼少期から父親に左手の箸をよく叩かれ、鉛筆の持ち手を怒られて矯正された結果、鉛筆、箸は右手、包丁のりんごの皮むき以外が左手、ハサミが左手なのです。なので、包丁で食材を切っているといると「怖くて見ていられない」とよく言われます。水泳も手癖も今では、苦痛というよりはキャラクターの一つだと思っています。

 

これは少し不思議な体験だったのですが、ある時、父方のいとこが病気で危篤との知らせで両親が岡山に駆けつけることになり、私と姉は留守番をしていたのですが、飼っていた猫が、夜中に何もない天井に向かって、「シャー」と威嚇しながら飛びかかっていく妙な動きをしたのです。しばらくしてから電話で猫の異変と同じ時刻に亡くなったと連絡があり、家族で「いとこが会いにきたのかもしれない」という話になりましたが、その数日後に猫が同じ行動をとったので、もしかしたら猫がおかしくなってしまったのかと心配になったのですが、あとでその時刻に中学時代の友人が自殺したことが判明したのです。人間にはわからないシックスセンスを猫がもっていることと、靈的現象があることを知り、その後スピリチュアルな物事に関心を持つようになりました。剣道に絵画、ギターと好きなことをさせてもらった高校生活もあっという間に進路を決める段になり、勉強が苦手だったので大学進学はあまり意味がないと思って専門学校か就職を考えていたのですが、母が「社会人になるまでの踊り場だと思って行ったら」と言ってくれて、美術部の顧問に言われた「彫刻家にならないか」のフレーズがヒントになり全国に2校しかない工業デザイン系の大学の一つを推薦していただき仙台に行くことになります。

 

関連記事一覧

PAGE TOP